小さい頃からずっと考えてたのよ。
自分の苦しさとか
自分の頑張りとかが客観的な数値になったらいいのに・・・と。
多分すんごい数値を叩き出すぞ
なんて変な自信を持って、いつも数値化を願ってた。
小さい頃にマンガや映画で見ていた未来の世界のように
夢のようだったことが今や次々と実現してきてるじゃない。
携帯電話、テレビ電話(Skype)
ルンバ
AIBO、ペッパー君
Siri、GoogleHome
セグウェイ、ホバーボード・・・
もっともっとあるだろうけど
私が浮かぶのはこのくらい。
テクノロジーすごいね。
だからいつかは
人の苦しみが数値化されるんじゃないの?なんて期待してる。
苦しみは比較できない。
努力は比較できない。
よく言われることじゃない。
確かにそうだよね。
失恋はこれだけつらい
試験に落ちたらこれだけつらい・・・
出来事を一般化しても
苦しみは人によって違うのは当然。
だけど
私は苦しみの大きさは
何となく見えるような気がしてしまう。
苦しみを大きさで考えてみる。
感性が豊かな人ほど苦しみは大きい
状況に落差があればあるほど苦しみは大きい
その時点の実力と比較して無理があるほど苦しみは大きい
慣れていないことほど苦しみは大きい
苦手なことほど苦しみが大きい
苦しみを一人で抱えるほど苦しみは大きい
これで大まかに
その人の苦しみの大きさは見えてくるような気がして。
日常を一変させるような出来事
命に関わるような、人の尊厳を損なわれるような出来事は
もう比較できるようなものじゃないから除外してね。
その時に感じた苦しみの大きさだけでなく
同じ苦しみが繰り返されれば繰り返されるほど
またくるんじゃないかっていう恐怖の苦しみや
もう大丈夫じゃないかと期待してから突き落とされる絶望の苦しみが
同じ苦しみが何度もフラッシュバックして思い出されるほど
日常生活が円滑に送れず人間関係に支障が出るような苦しみが
こんな大きな苦しみがプラスされる。
苦しみを感じる出来事の時間が長ければ長いほど
苦しみはどんどん大きくなっていく。
こんな感じで私は
人が見逃してしまうような
表には出ない、人の苦しみの大きさを感じてる。
一般的に
その人の苦しみって
なんとなくね
苦しいってどれだけ言葉や表情や体で表現しているかで
測られている気がするの。
だから
苦しそうなところを人に一切見せない人
余裕そうに見せようとする人
まだまだやれる
自分なんて恵まれた方だなんて
前向きににこにこしながら自分を奮い立たせてる人って
あんまり苦しんでないと思われてしまうと思う。
これがね
私は自分もしんどいと思うところだし
人もそれで潰れちゃうよって心配するところ。
肩を揉まれて
「お客さん、凝ってますね」
って言われるとなんか嬉しいじゃない。
限界まで頑張ってる
無理して頑張ってる
今しんどい
これが認められた気がして嬉しいのかな。
だから
苦しさが数値化できたら
苦しくなんかないと思って奮い立たせている人に
「お客さん、この数値・・・相当苦しんでますね」なんて言えて
あぁ自分苦しんできたんだな、頑張ってきたんだな
って思ってもらえるのにって思うのよ。
逆にね
苦しさをことさらに表現する人の数値が低ければ
あぁまだ私頑張れるって力が湧くかもしれないしね。
みんなね
出来事や状況だけで見て
自分の苦しみを小さく見積もってる。
そのせいで
自分の感情を無視したり
自分を追いつめすぎたり
自分は楽だと罪悪感を持ったり
自分の能力を低く見積もりすぎたりして
心に問題が起きて余計に苦しくなってしまう。
そういう人に私は
いやいや
あなたはめちゃくちゃ苦しかった!
あなたは全力でやってきた!
よく放りださずにそこまでやってきた!
誰にも気づかれずにふてくされずにやってきた!
いつもこう伝えたいんだよね。
頑張り続けなきゃいけないんだろうけど
つぶれてしまったらいけないよ。
苦しいって自覚して崩れ落ちるのが怖いんだろうけど
すべてを麻痺させてこのまま生きていくのも怖くない?
弱い自分を出せる場所が無かったから出せなかったんだけど
自分だけは弱い自分を認めてあげようよ。
自分を奮い立たせて頑張る姿は美しいけど
自分に正直に弱音をはく姿も美しいはずだよ。
自分の苦しさや頑張りを振り返って
自分をちゃんと見て
そのまんまの自分をよくやってると褒めてあげようね。
自戒をこめて。
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