逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

愛着障害の人はもっと自分を幸せにしなければならない

 


このお話は何度もさせていただいていると思うのですが、愛着障害が回復したと思っている方の多くは本当は回復しきっていないということがとても多いと思うんです。

 

だいたいの場合は


・親に何をされてきたか自覚できるようになった


・親に怒りを持てるようになった


・親から距離をおけるようになった

 

これを回復としているようです。

 


私のカウンセリングを卒業した方はお分かりだと思いますが・・・

これはほんの回復の初めの部分なんです。

 

 

精神科医やカウンセラーによって「心の回復」とどう捉えるかにとって、やり方もゴールも違いますし正解も変わってきます。

 

私の考える「心の回復」は、機能不全の家庭で育った愛着障害の方が普通の家庭で育った方と同じくらい自分らしく生きられるようになり、人生を楽しんで、幸せを感じられることです。

 

機能不全の家庭で育ってきた人が失ってきたものは計り知れない。

みなさんはそれに気づいていないんです。

 


「自分はこの程度」「これくらい上手くやっていれば十分」「最悪の時に比べば楽だからこれでいい」

 


私もそうでしたが

 

当たり前に手にいれていいものをそうは思えない

自分には最初から無理だと諦めている

自分の知らない幸せな世界があることがわからない

 

愛着障害の後遺症とも言える信念で、自分の可能性を信じながら前に進むことや、夢や希望に向かって努力をし続けることができません。

 

 

私はそれが本当に悔しく、いつも自分には何も出来ない、不甲斐ないと思うばかりです。

 


本人が「今のままでいい」「心に問題はない」と言う以上、私が「まだ回復しきっていません」と言っても言いがかりにしかならないですから・・・

 

 

機能不全の家庭で育ってきた方は、人生の前半で本当に苦労をされてきたばかりです。


だからこそ、愛着障害を治し、そこからどんどん幸せになっていかなきゃいけないと思うんです。

 

 

愛着障害の人で多いのは人のために尽くす人です。

 

私も典型的なそのタイプでした。

 

このような人は自分を空っぽにしたまま、人の役に立ち続けます。


人の役に立ち続ける以上、人に求められ、人に評価され、孤独にはならず、何となく人生が充実しているような気がするので、自分は空っぽのままでも安心が得られます。

 


SNSを見ていてもそんな方が沢山います。

 

 

本当にこれが難しい問題なのですが、社会の為にはこのような方はこのままで良いんです。

 

誰もが面倒で得もなく、報われず苦しくてやらないことを自分を犠牲にして取り組んでいる。
社会の宝ですよね。

 

本当に素晴らしい人で、その人自身もそれが自分の生き方だと納得している。
社会に貢献していて、本人も良いのだから何の問題もない。

 

 


でも本当にこのままでいいのでしょうか・・・

 

 


多くの場合、その方はいつもギリギリの状態です。

 

余裕があって楽しくて心も健康でいるなら何の問題もありませんが、ほとんどの場合、その方は追い詰められています。

 

 

でも人に求められているのに今更やめられない、方向転換の仕方がわからない、やめたところでどう生きたら分からない・・・そうして自分を空っぽにして犠牲にして人のため、社会のために貢献している。

 

周囲の人はその人がそのままで居てくれる方が嬉しいし助かる。誰もその人を止めようとはしないでしょう。


そして自己犠牲は維持され、その人が限界を迎え、心と体に問題が起きて人に貢献できなくなった時・・・周囲の人はこれまでの恩を返してくれるでしょうか?助けてくれるでしょうか?

 

人がギリギリで自己犠牲をしている状態を良しとして傍観している人の中にそんな人はほとんどいません。

 

 


私もそんな生き方をしていました。

 

いつも誰かのために役立っていたので、私自身が心の問題を抱えていても、人間性に問題があっても、孤独になることはほとんどありませんでした。

 


誰かのために全力で考えて行動して、心も体もギリギリなのに頑張り続ける。
そして倒れると人は去って行く。

 

自分一人で必死に回復して、それからまた誰かの為に役立ち始めると人がワーッと押し寄せる。
倒れるとまた人は去って行く。

 

 


本当に極端な生き方ですが、私にはこの生き方しかわからなかったんですね。

 

 

 

私がどうして自己犠牲をやめて自分を取り戻すことが出来たのか。

 

それは私を心から愛してくれる人との出会いからでした。

 

 

私を心から愛してくれる人は

 

私が自己犠牲にしていっぱいいっぱいになって、色んなことにしわ寄せがきて困っていると、それを背負ってくれます。

 

私が理不尽に人から搾取されて酷い目にあっていると、私の代わりに怒ってくれて、一緒に苦しんでくれます。

 

 


その姿を見続けて初めて「私は何をやってるんだ」と目が覚めたんです。

 

 


私の自己満足、私自身が人の役に立たずには居られない生き方のせいで、私は大事な人を巻き込んで苦しめている。

 

大事な人は決して自己犠牲して生きることなど望んでいなくて、きっと愛する人と穏やかに生きたいだけなのに、私のせいで重たい荷物を背負わせ、安心を奪っている。

 

私がいつも苦しんでいるせいで、大事な人もその姿を見て苦しんでいる。

 


私はただ人のために生きたかっただけなのに、一番近くで私を支えてくれる人を苦しめているのを見て見ぬふりをして「私は世の中に貢献している人間」と悦に入っていただけだったんですね。

 

 


私は境界性人格障害が治り、重たい躁や鬱も治り、自分はもう大丈夫だと思っていたけれど、まだまだ心の問題は残っていました。

 

本当に長い間、虐待や厳しい環境で生き延び、ただ何とかして生き残るという生き方や、自分より困っているであろう誰かのために自分の人生はどうなってもいいと助ける生き方しかしてきていなかった。

 

普通の人のように、まずは自分や家族や親しい友人の幸せだけを考えて、穏やかに幸せに過ごすという生き方が分からなかったんです。

 

 


普通の人には理解されないですよね。

 

「自分のことをやる」「自分の人生を前に進める」「自分を楽しませる」 

 

こんな当たり前のことが私には本当に難しかった。

 

 


それから私は少しずつですが、いつも私に頼ってくるだけの人たちや、いつも困り事を抱えている人たちから距離を置くようになりました。

 


後ろ髪を引かれますし、罪悪感も大変なものでした。

 

でも「私はまず近くの大事な人から幸せにしなきゃ」「私はまず私の人生を立て直さなきゃ」と自分に言い聞かせ、心を鬼にしました。

 

 

自分の人生に集中するようになり、エネルギーが残る分、楽な部分もありましたが、自分がどれだけ自分を放置してきてやらなければいけないことが沢山あるか、自分が未熟な部分沢山あるか気づかされ、すごく苦しかったんです。

 

 

人の役に立ち続けることは立派でしたが、私はこうやって自分をちゃんと見ることから逃げていたのかもしれないと今なら思います。

 


自分の人生に集中しはじめ、大学に入学したのが33歳。
そこから私は近くの人を大事にしながら、自分の人生を楽しみながら、勉強や鍛錬をしながら大学院に入学し、臨床心理士の資格をとり開業し、今の私があります。

 

もしあのまま、自己犠牲をして、大事な人を巻き込んで、自分の人生に集中できていなかったらどうなっていたでしょうか。


私は今も、ただ人の役に立つことしか価値がない、人生は自分を空っぽにして苦しい思いをするものと思いながら苦しみ、大事な人まで巻き込んで苦しめ続ける人生で、自己実現なんて出来ない人生だったと思います。

 


愛着障害の人は親の呪縛から離れた今も、人の役に立つことばかりしていて、自分の人生に集中出来ていないことはありませんか?

 

自分が楽しむこと、自分のために時間やお金を使うことが出来ず、自分を幸せに出来ていないなんてことはありませんか?

 

 

「今の私には何の問題も無い」そう思う気持ちはよくわかります。

 

でも本当ならもっと幸せに穏やかに人生を送れるはずなのに、まだ愛着障害の名残りで、自分のことを放置しているのかもしれません。

 

 

自分のことに集中する、自分を楽しませるのは私たちにとって、本当に簡単なことではありませんよね。


でも人生の前半に苦労ばかりだった私たちです。もっと幸せにしてあげたいと思いませんか?

 

 

私はクライエントさんがどんどん幸せになっていく姿を見て嬉しく思います。
でももっともっと幸せになれると思っていて「夢を叶えていこう」とカウンセリングをしています。


私自身も、20年前の自分からすると夢のような自分になれていると本当に思っています。
でもまだまだ自分を幸せにするために頑張り中です。

 

 

苦労ばかりだった愛着障害のみなさんが、どうか色んなことをあきらめず、もっと自分のことを幸せにしていくために貪欲になってほしい。

私はいつも強くそう願っています。