逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

自叙伝62 地獄のホステス時代

寮つきでキャバクラで採用されるための条件は厳しかった。

 

週6で営業時間18~2時までフルで働くこと。
そして10万円という高い家賃。
高級なマンションなどではなく、当時なら6万位じゃないかというボロいアパート。
完全にぼったくりだ。

 

25年前。バブル崩壊後だけどキャバクラの勢いがあった時代。
今ほどキャバクラのイメージは良くない。今ほど景気も悪くない。
だからキャバクラがどんどん開店するのに女の子が集まらないから足りない。

 

お店側も女の子を確保するのに必死だから女の子のわがままを聞く。
バブル期の就活で内定した学生に車や海外旅行などが贈られたという話があるけど、それに似たような状況だったと思う。

 

ドタキャンして休む、すぐに辞めてしまう、これが嫌あれが嫌というワガママなキャバクラ嬢ばかりでも、それが普通。
どんな理不尽なワガママにも、男性スタッフが唇を噛みしめながら笑顔で下手に出てご機嫌を取っている場面を見て、なんだかこれまでの自分の人生を見ているようで「大変だな・・・」と同情していたのを覚えてる。


キャバクラが寮を用意するのは安定してキャバクラ嬢を確保するため。
寮に入っている子なら簡単に休ませないし簡単にやめられない。
住む場所がない訳ありの子の足下を見てるやり方に従うのは悔しいけれど、お互いの利害は一致しているのだから仕方ない。

今思うと、この時代だったからこそ私ほどキャバクラ嬢として魅力の無い人間も採用されたんだと思う。

 


寮に入ったのだから条件通り、また猛烈に懸命に働く私。

 

私が入店したお店は少し高級なお店だった。
中学生の時から働いていた養父母の経営する小さなスナックとは訳が違う。

 

オープンしたてでピカピカ、広い店内、シャンデリア、大理石のような床、黒服でビシッと決めた男性スタッフ。高いお酒のボトルが並んでいる。
女の子はロングのドレス着用。

 

あれほど恐れていた割に、いつもミーハー心がある私は「こんな所で働いているなんてカッコイイ」なんてワクワクした気持ちもあった。
でも実際は全然甘くなかった。

 


私はキャバ嬢としては致命的なことがたくさんあった。
まず・・・ブスでスタイルが悪かった。

 

中学、高校の時はモテた。
しゃくれで顎も長いし頬骨も出てるけど、目鼻立ちは良い方だから髪型やおしゃれで雰囲気でなんとかごまかして綺麗に見せてた。
その当時有名だったタレントが比較的ゴツい輪郭の人が多かったから、それも追い風になってた。

 

大学になってからは絶望的。
モテないだけでなくどちらかというと「ブス」のような扱いをされはじめた。
大学のレベルが高かったのだろうと思ってたけどそれだけじゃない。

 

後になって気づいたのが、高校2年くらいから私の顎は伸び始めてた。
こう書くと何だか笑えるけど本人にとっては笑い事じゃない。

 

ホルモン異常で大人になってから骨が大きくなる症状がある。
高校生の頃は美人と言われることもあったのに、大学に入ってからブスキャラになったことに自分でも混乱してた。
足も高校1年で24.5センチだったのに大学生で26センチに。
これも症状のひとつだったのかもしれない。

 

しかも世はアムロちゃんが出てきたりして小顔ブーム。
キャバ嬢も小顔であればあるほどいい。
さらにクラスで一番かわいい子レベルが集まっているキャバクラ。
そこに頬骨が出ていて反対咬合で顎の長い大顔の私。無理だ。

 

 

私と同じくブスな子でもスタイル抜群な子はキャバクラでも人気だった。
胸が大きくて顔も小さく足もスラッと長い子。
私は頭が大きくてずんぐりむっくり。
どんなに痩せてもふくらはぎ35センチの大根足。胸はペタンコだった。

 

だから毎日当たり前のように「ブス」と言われた。座って10秒もしないうちに「チェンジ」と言われた。ヘルプについても露骨に嫌な顔をされてずっと背を向けて無視されることもあった。
この頃は死ぬほど悔しかったし、なんて酷い人間ばかりなんだろうと思ってた。

でも今冷静に客側の気持ちになってみると、高いお金を払って「可愛い女の子がいる」と保証されてるはずがあの頃の私が登場したら、そりゃそういう態度もとりたくなるかと思う。

 


私と同じブスでスタイルも悪い子でもキャバクラで生き残っている子もいた。
それは大酒が飲める子。
沢山お酒を飲んで豪快に笑う子はウケる。
キャバクラの客は女の子にも沢山飲んでほしい人が多いのだ。

 

なんと私は一滴も飲まない。
飲むとすぐ気持ち悪くなるし眠くなるし、頭が回らなくなって感情が制御できなくなって仕事にならなくなる。
ブスでスタイルも悪くお酒も飲まないホステス・・・
致命的すぎる。

 


この頃一番きつかったのは客からの罵倒ではなかった。
キャバクラ嬢の女の子たちとの関係。
本当に難しかった。

 

高校一年の時、友人関係で一番苦労したのを思い出す。
分かりやすいイジメは受けていない。
でもなんとなくグループの皆に笑われる、シラーッとされる、馬鹿にされる、そこに居ても居ないかのような扱いをされていた。

 

振り返ると人生で一番合わないタイプのグループにいた。
最初は人気者グループにいたけれど私の心の病が出て見限られてしまったから居場所がなかった時。

とにかく自分を殺して懸命に我慢してた。
話してることに全く興味が持てないし、誰一人尊敬できないし仲良くなりたい人なんていなかった。
高校二年で理系クラスになって、やっと話が通じる仲間たちと出会って息が吸えるようになった。


この頃と全く同じ空気だった。

何をしてもとにかく「変だ」と笑われる。シラーッとされる。
営業時間にお客様がとぎれて、待機の時間が長くなることもある。
そんなときは女の子同士でおしゃべりをしなきゃいけない。
女の子たちはブランドものの話や海外旅行の話、彼氏の話だけ。その時生きのびることしか考えていない私にはそんな話はどうでもよかった。

 

キャバクラは若ければ若いほどいい。18歳が一番価値が高い。
なんとなく女の子たちもわかっているから23歳の私は「おばさん」と馬鹿にしてくる。

 

高校中退、高校卒業してすぐにキャバクラという子が多く、大学に入学した子も居なかった。高校時代は理系クラスで数学が好き、4年生大学入学・・・みたいな私はこの頃は本当に異質だった。

 

私は見た目も異質だった。
ドレスを着てしまえば私もみんなと同じキャバ嬢に見える。
でも私服は全然違う。
みんなギャル系やヤンキー系な感じ。

私は当時の雑誌で言うとキューティやジッパーのような古着や個性的なモード系の服。
当時のキャバクラにはそんな子は居なかったから服のことは特に馬鹿にされてた。

 


こんな私だけど店長や男性スタッフには気に入られていた。
それもまた女の子たちが私を気に入らない点だった。


他の女の子は「気分がのらない」、それだけで当日欠勤や早上がりが当たり前。嫌なお客さんには文句をいって拒否する。
私はもちろん皆勤。嫌なお客さんでも「任せてください」と対応する。
私には話術やコミュニケーション能力、カウンセリング能力があったから、最初は「ブスをつけるな」と拒否をされるけど、10分もあれば形勢逆転できる。
必ず完璧にご機嫌をとって後処理をする。

 

見た目は悪い私だけど、困ったときに頼りになる私は店長のお気に入りだった。
男性スタッフにも丁寧に接してねぎらいの言葉も忘れないから仲がよかった。

女の子とは上手くやれないけど、店のスタッフと仲が良かったから何とか毎日をこなしていけてた。


この頃だけじゃなくて、私は他のアルバイトでも店長や社員さんにいつも気に入られた。
文句を言わず全力で与えられた仕事をやるし、本来なら自分が気にかけてもらう側なのに私の方が店側の人にも気遣いや心配りを自然にしてしまうから。

 

だからわがままな他のバイトの子に「竹田さんばかり優しくされてる」と嫉妬されることもよくあることだった。
私からすれば嫉妬の意味がわからなかった。
何もせずに取り入って気に入られてひいきされてるんじゃない。
身を粉にして捧げているからだよ、あなたたちもそうすればいいだけだよ・・・って思っていたから。

 


出勤からオープンまでの時間、待機の時間、閉店して送りを待つまでの時間。
女の子たちは私を笑ったり、私の存在を無視したり、私以外全員で遊びに行こうなんて話をしたり。
針のむしろに座っているような苦しい時間だった。

 

でも寮に入っている私。住む場所は他に無い。
こんな状況でも逃げ出せない。
私が怒ったり泣き出したりして平穏を壊すわけにいかない。
ただヘラヘラと笑って馬鹿にされるのを許容するだけ。

 


毎日話が通じないギャルに馬鹿にされ無視されイジメられ、毎日何度もお客には「ブス」と言われぞんざいに扱われる。
自尊心は地の底まで落ちた。

 

養父には散々馬鹿にされて育った。
ブス、変な顔、馬鹿、変、気持ち悪い、頭おかしい、役立たず・・・ありとあらゆる悪口を浴びた。


でも外の世界では、発達障害の症状を抑えられるようになってからは私は褒められる、認められる、求められる、愛されることが多かった。
ずいぶんチヤホヤされてきたと思う。
だから養父にズタズタにされた私の自尊心は回復した。

 

でもここは本当に地獄だった。養父一人では無い。
よってたかって何十人に否定される。

 

でも逃げ出す選択肢はない
ここでも私は生き延びる術を探しながら毎日必死に働いた。