逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

自叙伝61 ホステスになってしまう私

ホステス時代のことを思い出してみよう。

 

ホステス時代は嫌なことばかりでもなかった。得るものもあった。
心の病を抱えていて心の空白が大きくぽっかりと穴が空いていたその当時の私には、きっと有り難い場所でもあった。
それでも20代のホステス時代は思い出すと今もとても苦しい。

 

30歳ぐらいまでかな。
ずっと追い詰められていた人生だった。
その中でも特に追い詰められていた時期がある。

 

発達障害のピークだった小学1年生、精神的虐待や身体的虐待、性的虐待がひどくなって希死念慮がひどかった小学4年生、周りに合わせることが毎日ギリギリだった中学3年高校1年、大学で毎日一緒に過ごしていた友人たちが就活、卒業と離れていった21歳の頃。

 

これらと同じくらい追い詰められていたのがこの20代のホステス時代。
23歳でキャバクラのホステスになった頃は毎日が地獄のようで怖いことばかりだった。
思い出してみるとなんだかフワフワと現実感がなく解離していたのかもしれない。


20歳の頃に私は養父母の元から逃げ出した。
見つけられる危険があったから大学を続けられなくなった。
頭のおかしい養父母から逃げ出してめでたしめでたしではない。
お金もなく保証人もおらず、住むところに困ることになった。
この話は別で改めて書こうと思う。

 

その頃付き合っていた彼と半同棲中だった。
19歳くらいでボーダーが発症し、ケンカも絶えず別れ話を切り出しても私は住むところがないから折れるということの繰り返し。

 

別れたら住むところが無くなるから別れない。

でも自分がそんな考えを持ってることを認めたくなかった。

 

何もかも私に甘えてくる、思いやりもない、浮気をするなど、もう好きではないのに「私はこの人が好きだ」と自分に言い聞かせて我慢をするしかなかった。 

 

 

彼が就職して地方にいくことになり、本当に住む場所が無くなった。
それでも彼は私の心配などしなかった。
私が住む場所や、私のこの先の身の振り方などの話は全くなく、普通の遠距離恋愛のようにどこで会おうかという話しかしない。
今考えると異常だ。


住む場所をなんとかしなければ。家賃と食費を稼がなければ。
私はどんな仕事でもいいと、とにかく寮つきの正社員の仕事を探した。

 

この頃は、成人していても保証人として親に連絡が必要だった。
面接の時にそこをつっこまれると私は焦ってしどろもどろになってしまう。
そんな態度は怪しすぎるからもちろん採用されない。

 

今思えば色々とごまかしようがあったかもしれないと思う。
でも私には「親から逃げた家出少女」という自分のイメージがあって負い目が恐怖となって自分が悪いことをしているのを隠さなければという思いが大きくて上手く立ち回るなんて無理だった。
本当はあまりに酷い虐待をする親から逃げただけであり、保護されるべき存在だったのに・・・私は私が悪いことをしていると思ってた。

 

親のことを聞かれなかった唯一の会社があった。
採用され、小さなワンルームのアパートの寮に入ることができた。
「やっと、やっと住む家を手に入れた!」本当に幸せな気持ち。
最寄りのコンビニのミニストップでお弁当とお茶を買ってその部屋に戻る時、久しぶりに自分だけの住処が手に入れられた安堵は忘れられない。

 

入社してからそこがいかがわしい健康食品の会社だと分かった。
羽毛布団を高額で売るような、わかりやすいマルチ商法の会社。
仕事を始めてすぐに分かったところでもう、住む場所がない私は後戻りできない。
ただ与えられた仕事を懸命にやるだけ。

 

言動の怪しい私でも採用される会社。やはりブラック企業だ。
朝8時から終電まで毎日働いた。ただ救いだったのは同僚や先輩がいい人だったこと。
だけどまるで宗教みたいな雰囲気の場所だった。
私以外は本気で「良いことをしている」「人を幸せにしたい」と思って、この会社のやっていることは正しいと思い込んでいる。

 

良い人たちだけど「今やってることヤバいよね」なんて話せないし「この労働条件はおかしい!」なんて本音も話せない。
上手くいえないけど、覇気はあるけど魂が抜けているような、自分が無く操られている人形のような人たちの中に紛れ込んでしまった居心地の悪さがあった。

 

悪い仕事、恥ずかしい仕事をしていると毎日思いながらいる私。
良いことをしていると思いこみながら笑顔で人を騙している同僚や先輩。
会社のためと遅刻も欠勤もしない。たまに会社のブラックさに文句をいう人がいれば「人として正しくあれ」とその人を優しく諭す。

 

高校の時もクラス全員が洗脳された中で一人目覚めていた私。
この洗脳された人しかいない異様な環境にいると頭がおかしくなりそうになる。
それだけでなく、体が元々弱い私は休みがほとんどない状況に体が先に悲鳴を上げた。

 

半年経って鬱状態になり続けられなくなった。

鬱でも休んでいられない。住むところを探さなければ。

会社をやめたらすぐに追い出されると思っていた。

 

ところが事務の人が本当に優しいお姉さんだった。
今でも声や表情をよく覚えている。
住むところがない私の事情を知って、なんとかギリギリまで伸ばそうと努力してくれて3週間も猶予をくれた。


また住む所が無くなってしまった。

猶予はもらえたけど、鬱状態でも次を探さなければならないのは変わらない。


普通の会社員になりたかったけれど、これまでの経験でもうまともな所は自分を採用しないと悟っている。
パチンコ屋?私は大きな音が苦手だしタバコもヘビースモーカーの親の影響で大嫌い。それに体力仕事だから無理。

 

寮つきのところで私が働けそうなのはキャバクラだけだった。

中学3年からホステスをやらされていた。だから自分が出来るのはわかってる。
でもお酒がほとんど飲めない、年齢が上の男性が怖いから、本当に本当に嫌なことだった。

 

嫌だった理由はそれだけじゃない。

 

私の育ちの悪さは折り紙付き。中卒であまり頭が良くない両親(中卒でも頭がいい人もいるけれど両親は違う)働かないヒモの養父、スナックのママ。世話をされた記憶はほとんどなく、虐待されながら育った。中学生からホステスをやらされてた。
こんな育ちだからホステスなんて余裕だと思われるだろう。

 

一方で私は運よく高校と大学で周りは育ちの良い人たちに囲まれ、学級委員やサークル長などのリーダーを任されそういう人たちを率いた。塾講師や家庭教師をやって・・・いつのまにか心は真面目な優等生になっていて、こんな経験からまるで自分も育ちが良いかのような自尊心の高さがあった。

 

今でこそキャバクラ嬢は普通の子も優秀な子もやるイメージがある。
30年近く前はホステスと聞いた人の反応は、風俗と同じくらいアンダーグラウンドな世界と思われていたようなものだった。


私も人に言えない悪いことをする気持ちだったし、本当に怖い場所というイメージだった。
キャバクラの面接の電話をかける時、やぶれかぶれだった。
もう何もかも捨てさる覚悟。

 

私のことは誰も助けてくれないんだから。
何をやっても生きていかなきゃいけないんだと覚悟を決めた。