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私の仕事は漫画家です。
東京の出版社に居る担当編集者と、
向こうの提示する期日に合わせて作品を作る。
期日に間に合うようにアシスタントと作業を分担し、
サイン会や雑誌の取材などに出ないといけない時は、
世間のイメージは漫画家というとひたすら家に籠る仕事と思うかも
実際は全く違って、人とのやり取り、
きっかけは、仕事での小さなミスや、時折感じる違和感でした。
書店からのサイン色紙の依頼なんて、
こんな話にしたいと思っても、
向こうが言ってくる台詞や表情の修正も、いまいちピンと来ない。
「ここはこんな顔になる筈」「ここは咄嗟にこう言っちゃう筈」
「へぇ、人間ってそういうものなのか」といった、
電話を切った後で、それが苛々やモヤモヤに変わっていく。
そういうものが少しずつ溜まって、
ひたすら言うことを聞いて、アシスタントに仕事を配り、
話を考える所から始めて、20日で20ページ。それが1話分。
6ヶ月で、本1冊分。
それを何年も。
何冊も。
ずーっとそうして過ごしていると、
ガスの火を消したか?鍵をしめたか?
些細な事が気になって気になって、
買い物メモを持っていって、それを見ながらでも書い忘れをする。
街の色々な音、色が全て同じ強さで頭に入ってくるようで、
ひどい時はトイレを探して、そこに篭ってしばらく動けなくなる。
これはいよいよ問題かも知れないと思い、
普通はここで、
ちゃんとした友達が居ない当時の私には、
知能テストを受けられる場所だけ、母に聞きました。
母は昔から鬱病を持っていて、
カウンセリングを受ける気も全くありませんでした。
一度、不登校をした時に母にカウンセリングを受けさせられたけど
カウンセラーさんは時々相槌を打って私の話を聞くだけで、
私の疑問や苛立ちの答えは言ってくれなかったから。
自分の脳の、何が問題かだけを知りたかった。
結果だけ欲しがる。後は自分で考えて工夫する。私の癖です。
外を走る車の音や、時計の秒針、
2時間くらいのテストを終えると、
すぐに気が散る。
かと思えば、集中し過ぎる。
コミュニケーション能力が低い。
マルチタスクが処理できない。
想像力の欠如。
自分から受けておいて何だけど、違うやろ、と思いました。
仕事は日々、怒涛のマルチタスクだ。それを何年もやってんだ。
物忘れは最近急にひどくなっただけだ。
人が信用できないから付き合えないだけで、
ボケもツッコミも出来る。
そもそも想像力が無くて、どうして私が漫画で生活出来てるんだ。
アスペルガーが嫌だったんじゃないです。
原因が解れば、対策が出来る。
正しい対策の為に、ただ、全部に納得できる、
実は一つだけ、心当たりがありました。
テストを受ける前に、自分でも自分の症状を調べまくったから。
ギフテッドという言葉が、
そしてその中に、みゆさんのブログの記事もありました。
ブログで、愛着障害やギフテッドの事を知りました。
テストを受けた病院で言われた事よりも遥かに、
「ああ、これが自分が感じてきた辛さだ」と思えました。
翌日、みゆさんに申し込みのメールを書きました。
人が信用できない。
当たり障りのない会話は出来るけど、それ以上は出来ない。
テストを受けたこと、その結果に納得していないことも。
安心できない、も書いた気がする。自分が嫌い、
全文そのままはもう思い出せないけど、
どうすれば辛さが伝わるだろうかと、
とても時間がかかった事は、よく覚えています。
みゆさんからの返事に、
「愛着障害のギフテッドだと確信しました」ということと
カウンセリングの日取りについてが書かれていた時、
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みゆさんとのカウンセリング初回。早速、問題が発生しました。
そもそも私は、学生時代のカウンセリングで
カウンセラーさんというものを全く信用していませんでした。
その内、
自分の内側なんて、一度も開けて見せた事がありません。
結果、完全にパニックになり、
「私の勘違いかも知れない」「私はどこも悪くないと思う」
わーわー捲し立てました。
「私がカウンセリングに全力で臨んでも、クライエントさんにやる気がないとカウンセリングは無駄になる」
みゆさんが言っていたのは、そんな感じの事でした。
話したいのに話せない。話すのが怖い。
自分でも何をどれだけ詰めたかわからないような、
全身で押さえているような感じです。
「考えるから、ちょっと待ってください」
が、最初の私のまともな言葉でした。
みゆさんは、「考えるっていうのは、
私が話し始めるまで待ってくれました。
最初の衝撃が大き過ぎて、初日の事はこのシーンだけが鮮明です。
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クローゼットに詰め込んだものを一つずつ出して並べていく。
最初の方は、そんな作業の繰り返しでした。
詰め込んであったものは、大半が家族の事でした。
母は、2歳下の弟には優しく、私にはとても厳しい人でした。
早くから塾に通わされ、友達と遊ぶのは禁止、テレビやゲーム、
塾から家に帰り着くのは、いつも21時半。
弟はとっくに晩御飯もお風呂も済ませ、2階で寝ています。
母だけがリビングに座っていて、手を出してくる。
今日あったテストの答案を全部出せという意味です。
この時間がとても嫌いでした。
母はまず点数を見ます。
100点なら、「ん」とだけ言って返す。
機嫌が悪い日は、「他に100点は何人居ったん?」
それが多ければ「なんや…簡単やったんやな」と嫌味を言ったり
少なければ「あっそう。でもこんなん、当たり前やからな。
100点で当たり前。
一度、苦手な算数で70点代をとり、散々怒鳴られ、ビンタされ、
塾から帰ってからも23時までは勉強です。
母は私の向かいの席で、新聞紙をきつく丸めて和紙で固めた、
私がつまらないミスをする度に、頭を一度、
それが平日毎日。
テストについて以外にも、母のそんな所は沢山ありました。
休日、私がどこかで聞いた歌を機嫌よく家で歌っていると、「
冬、ささくれた指先を私が気にしていると、「
朝、ジャム瓶の蓋が噛み合わず苦労していると「
一番よく思い出されるのは、
春、小学校からの帰り道で見つけたスミレの花を、
萎れないように小走りで帰り、急いで靴を脱いで、
母は、ニコリともせずにスミレを見て「私、紫色嫌いやねん」
こんな時、私はいつも、
自分がつまらないような、何をしても駄目なような。
母が喜ぶと思い込んで、
顔が熱くなって、目と鼻の奥が詰まるような感じです。
母は浪費癖が酷く、父とよく喧嘩をしていました。
喧嘩の所為か、心因性の喘息やら鬱やらで、
母が入院すると、平日は母方の祖母が、私と弟の世話に来ます。
土日は父が家事をします。
祖母は、父への不満をよく溢していました。
父は、とても苛々しながら悪態をついて家事をしていました。
弟は、母が早く帰って欲しいと寂しがっていました。
家の中の何処に、誰と居ても、
一つ一つのエピソードを取り出す度、
みゆさんは「その時どう思ったの?」とよく聞きました。
私は最初、
「祖母は、母の味方をしてあげたかったんだと思った」とか
「父は仕事で疲れてるのに家事までして、
「弟は母が好きだから寂しいだろうなぁ、可哀想だなぁと思った」
そんなような事しか答えられませんでした。
要領を得ない私に、「他の人じゃなくて、
聞いてもらって初めて、
そして、自覚しても尚、
滅茶苦茶難しいです。
過去の人生を映像だとして、
私がカウンセリングで出来るようにならなきゃいけない事は
「映像の中に居る自分を完璧に再現して話す事」です。
私がしていたのは
「映像を流して、画面の前で淡々とシーンの説明をする事」
しかも自分のじゃなくて、他人の説明。
とにかく、その場その場の自分の感情を掘り下げる。
初めは「いやだった」とか「かなしかった」とか、
何度も繰り返す内に、
姉である私の前でだけ、父への不満を平気で話す。
私は母に酷く扱われているのに、どんな時でも母の肩を持つ。
時には、「私の育て方が悪かったんやろか」と母をただ嘆き、
何処へでもなく、1人で悪態をついて雑に音を立てながら家事をや
手伝おうか?と声をかけるのも躊躇する程、怖かったです。
母のことが嫌いで怖くて、
なんにも知らずに寂しいだ何だと甘えてくる弟が鬱陶しかったです
家族全員の遠慮の無さが、痛くて辛くて堪りませんでした。
皆別々の方を向いていて、頭数が足りているだけの「
何も出来ず、耐えているだけの自分も嫌でした。
誰も苛つかせたくなかったので、
祖母は喜び、父も不機嫌になる事は少なくなりました。
浪費癖の母に生活を壊されないように、
年齢関係なく、
漫画家を目指しました(高校生の私は何故か、
問題の早期発見、迅速な対策と工夫。
感情をすっぽかして先へ先へと進む癖は、
泣いたり怒ったりする暇など、ありませんでした。
とにかく、そうして何十年も放ったらかしていた感情ですから、
見栄や警戒心も中々抜けず、
その度、みゆさんは見逃さずにそれを指摘します。
初めは何か、
でも、不恰好でも良いのでそれを話すと、みゆさんは
「そう思って当然だよ!」と肯定してくれます。
「何を思ってもいい、言ってもいい」のは心地いいです。
心地いい、と感じられるようになる事自体も、
カウンセリングを受ける前の私からすれば、
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記憶と感情が一致していった頃から、変化がありました。
良いことはより嬉しく、悪いことはより腹立たしく。
家族に対しての嫌悪感や自分の無力感がいつまでも尾を引く日があ
いつもならどうでも良いと思っている筈の、
生理前は何をしても涙が溢れてきたり、眠れなかったり、
感情の振れ幅が大きくなって、
この時ばかりは、どうしても楽になりたくて、「つらくて堪らない」と泣きながらみゆさんに訴えました。
みゆさんは、
「これは一時的なものだよ」
「ずっと抑えてきたものを戻したから、その反動なんだよ」
「苦しいけど、絶対におさまるものだから、
一緒に「つらいね、つらいね」と言って、
2人で泣いて、頭の中は暴風雨の様だったけど、
家族と私の気持ちが一緒だった事なんて、
自分の辛さで泣いて怒って、それを私にぶつける人ばかりで
私の辛さを思って泣く人なんて、居ませんでした。
みゆさんはよく、みゆさん自身の失敗話もしてくれます。
それを聞いてると、私もみゆさんと一緒の気持ちになりました。
みゆさんの悲しい話で、私が泣いたこともありました。
自分で自分の感情を掘り下げるだけじゃなくて、
この「一緒に、一緒の気持ちになる」も、
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カウンセリングに慣れ出した頃、周りの人間関係が変わりました。
誰かと居る時に必ず持っていた、「当たり障りのないライン」
今までどうして、こんな人と平然と付き合えたんだろう?
面倒臭い人間が、友人に沢山居ました。
相手にすると私が擦り減って終わるので、
逆に、こんな面白い人と、何故もっと話さなかったんだ?
出版業界は、毎年大きな新年会を開きます。
地方に居る作家も含めて全員東京に集まるので、その時だけ、
同じ雑誌で働いているのに、会える機会は年に一度、2時間。
前の私なら、そんな限られた時間会ったって、
隅っこで飲み物を飲むか、
カウンセリングを始めた翌年の新年会で、
私はなんと、気になっていた作家さんに声をかけました。
笑顔で話しかけ、その人の作品の何が好きか、
2時間、あっという間でした。
会の最後にその人とは連絡先を交換し、
今でも電話しながら原稿を一緒に頑張る仲です。
一緒に会話をしていた時、他の作家さんも寄ってきて、
限られた、意味のない時間では、全くありませんでした。
恋人も出来ました。
みゆさん以外に、自分の中を話せる相手が少しずつ出来てきて、
楽しい期間がやってきました。
何でもやってみたい、誰かと話してみたい。
人馴れし始めた、好奇心だらけの幼稚園児です。
新しく出来た友達や恋人の話を、みゆさんにしました。
みゆさんは、私にあった良い事は勿論一緒に喜んでくれますが、
舞い上がった私が見逃すような、
この時期から、根気よく出来ていた筈の「その時どう思ったの?」
折角出来た新しい人間関係を否定されるような気がして怖かったの
本当はそんな事は全くなく、
私がこれまで家族の中でしてきた事を、
勿論これは後になって理解できた事で、当時の私は
「折角楽しい感じになってきたのに、
という気持ちでした。
確かそのくらいの頃に、
感情の掘り下げも大事だけど、
何があっても2週間我慢すればみゆさんにぶち撒けて助けてもらえ
それが半年間も無くなるというのに、大丈夫!
みゆさんとの通話を切る間際で薄々実感して、
寂しい時に寂しいと言う。
愛情表現や「甘える」ことも、「怒る」に次いで、
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でも、結果としてカウンセリングを休んだ半年間は、
ひたすら「その時どう思った?」を自分の中でやりました。
どう思ったって構わないのは、
何が嫌だったのか、嬉しかったのか、悲しかったのか、
毎日毎日、自分に集中して過ごしました。
生理前の不調の時は、焦らないように、
「どうしたってダメな時、あるある。私もあるよー」
みゆさんの言葉を思い返して、ジッとやり過ごす。
どうしてもどうにもならない時、人に頼るという事も覚えました。
逆に、人を拒む事も。
これを助けて欲しい、とお願いする時も
今日はちょっと元気がないから、また今度ねと断る時も
今お話したい気分なんだけど、電話してもいいかな?
「その時どう思った?」と間違えずに
本心を素直に口にすると、嫌な顔をする人は居ませんでした。
そうして何とか、自分に集中しながら、半年を過ごしました。
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始めたばかりの頃、早く楽になりたくて、
時折、みゆさんに「いつ終われますか?」と聞いていました。
休止を終えてからは、またもう一度同じ過去の話をしたり、
友人や恋人の話をしたり、その時々の感情を深掘りしたり。
何気ない言葉がきっかけで忘れていた記憶が出てきて、
カウンセリングではない日々も、
「2週間耐えればみゆさんがどうにかしてくれる」ではなく、
休止の時みたいに、
そうしていると、2週間はとても忙しく、1ヶ月に感じる事もあり
「いつ終われますか?」なんて気にしていられなくなった頃に、
みゆさんの方から「卒業も近いねぇ」
人間関係が変化したのは話しましたが、
担当編集からの、台詞や表情の修正が減りました。
「いい表情、入りましたね」と言われる事も増えました。
私の反応が、人間らしくなったからだと思います。
それでも時折くる修正も、理屈が解るようになりました。
生きる為に始めただけの仕事が、少しずつ、好きになれました。
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カウンセリングを始めて2年9ヶ月。
「これだけの事を抱えて、よく無事で生きてくれたね」
最初の頃、みゆさんに言われた事をよく思い出します。
いつかどこかで私の我慢が切れて、
母親か自分、もしくは世間の誰かに何かをしても、
自分でもそう思います。
みゆさんとのカウンセリングを重ねて、
詰め込んでいた荷物が少しずつ軽くなっていくのを感じる度に自分
不思議なことに、その気持ちが増していく毎に、
あれほど気になっていたガスの元栓や施錠が気にならなくなりまし
人混みや賑やかな場所は相変わらず苦手だけど、
音や色の数に圧倒されてトイレに逃げ込む事も無くなりました。
忘れ物は、時々します。
でも、今まではただ無力感や罪悪感に苛まれていただけだったのが
「お茶のパックくらい、また明日買えばいいや」
「担当編集に電話して謝って、どうにかならんか相談してみよ」
といった具合に、程よく無責任な人間になれました。
程よく無責任。
聞こえは悪いかも知れませんが、これは重要なことです。
育った環境の所為で、私はずっと、
カウンセリングを始めて、良い人間関係を増やし、
みーーんな、程よく無責任です。
でもそれで、世の中うまいこと回ってます。
昔のような、
「ちょっとでも気を緩めると誰かに邪魔されるぞ」といった
凄まじい気力、孤高の強さみたいなものは無くなってしまったけど
「ちょっとポカやっても誰かと何とかすりゃいいや」みたいな
気の抜けた、厚かましい強さのようなものが生まれました。
どちらの自分も好きです。
みゆさんにもらったものは数え切れない程ありますが、
「自分の気持ちを無視しないこと」
「一緒に、一緒の気持ちになること」
「程よく無責任になること」
これが、自分と、自分の周りを大きく変えてくれたと思います。
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カウンセリングを受ける前からずっと、長い連載をしていました。
カウンセリングの最中に、それが完結し、
カウンセリングが終わる頃、その連載も完結しました。
今は、また新しい連載の準備をしている所です。
自分でそれぞれの作品を読み返すと、全然違います。
自分の描いたキャラクターの表情、
カウンセリングを晴れて卒業し、
母の借金地獄から自分を守る為に始めた漫画家でした。
何を描いていても、いつ、母から「お金がない!!」
これからは、ただ、自分の理想の為に描いてみたいです。
自分も他人も大嫌いだった私が、こんなに変われたんですから。
私も、みゆさんのように、誰かに寄り添う、
長くなりましたが、
カウンセリングを受けようか迷っている方の、
みゆさんに、どーんとぶつけて、
別々のように感じて苦しかった、
自分のこと、ぎゅっと抱きしめてやりたくなる位、
何が嫌で何が好きか、
絶対に、大丈夫です。