逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

体験談⑦30代前半女性 漫画家Kさん

 

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私の仕事は漫画家です。

東京の出版社に居る担当編集者と、電話のみで作品の内容を打ち合わせをする。

向こうの提示する期日に合わせて作品を作る。

期日に間に合うようにアシスタントと作業を分担し、滞らない様に指示を出し続ける。

サイン会や雑誌の取材などに出ないといけない時は、関西から東京まで遠出もする。

世間のイメージは漫画家というとひたすら家に籠る仕事と思うかもしれないけど、

実際は全く違って、人とのやり取り、スケジュール管理がメインと言っても良いくらいです。

 

きっかけは、仕事での小さなミスや、時折感じる違和感でした。

 

書店からのサイン色紙の依頼なんて、忘れる方が難しい様な大事な用を忘れてしまう。

こんな話にしたいと思っても、担当編集と電話をすると言葉が詰まって上手く言えない。

向こうが言ってくる台詞や表情の修正も、いまいちピンと来ない。

「ここはこんな顔になる筈」「ここは咄嗟にこう言っちゃう筈」と言われても

「へぇ、人間ってそういうものなのか」といった、変な感覚になる。

電話を切った後で、それが苛々やモヤモヤに変わっていく。

そういうものが少しずつ溜まって、でもそれに反応している時間も無いから

ひたすら言うことを聞いて、アシスタントに仕事を配り、締め切りを守る。

話を考える所から始めて、20日で20ページ。それが1話分。

6ヶ月で、本1冊分。

それを何年も。

何冊も。

 

ずーっとそうして過ごしていると、生活まで変になっていきました。

ガスの火を消したか?鍵をしめたか?

些細な事が気になって気になって、何度も家に帰って確認してしまう。

買い物メモを持っていって、それを見ながらでも書い忘れをする。

街の色々な音、色が全て同じ強さで頭に入ってくるようで、すぐに疲れる。

ひどい時はトイレを探して、そこに篭ってしばらく動けなくなる。

 

これはいよいよ問題かも知れないと思い、知能テストを受けに行きました。

普通はここで、誰かに話をしてみるという方法があったのかも知れないけど

ちゃんとした友達が居ない当時の私には、そんな気は微塵もありませんでした。

知能テストを受けられる場所だけ、母に聞きました。

母は昔から鬱病を持っていて、そういった関連の病院に詳しかったから。

カウンセリングを受ける気も全くありませんでした。

一度、不登校をした時に母にカウンセリングを受けさせられたけど

カウンセラーさんは時々相槌を打って私の話を聞くだけで、

私の疑問や苛立ちの答えは言ってくれなかったから。

 

自分の脳の、何が問題かだけを知りたかった。

結果だけ欲しがる。後は自分で考えて工夫する。私の癖です。

 

外を走る車の音や、時計の秒針、ブラインドから入る光にいちいち苛々しながら

2時間くらいのテストを終えると、アスペルガー症候群だと言われました。

すぐに気が散る。

かと思えば、集中し過ぎる。

コミュニケーション能力が低い。

マルチタスクが処理できない。

想像力の欠如。

 

自分から受けておいて何だけど、違うやろ、と思いました。

仕事は日々、怒涛のマルチタスクだ。それを何年もやってんだ。

物忘れは最近急にひどくなっただけだ。

人が信用できないから付き合えないだけで、コミュニケーションも取れる。

ボケもツッコミも出来る。

そもそも想像力が無くて、どうして私が漫画で生活出来てるんだ。

 

アスペルガーが嫌だったんじゃないです。

原因が解れば、対策が出来る。

正しい対策の為に、ただ、全部に納得できる、正しい原因が欲しかったんです。

 

実は一つだけ、心当たりがありました。

テストを受ける前に、自分でも自分の症状を調べまくったから。

ギフテッドという言葉が、いつも検索後のページ一覧のどこかにありました。

 

そしてその中に、みゆさんのブログの記事もありました。

ブログで、愛着障害やギフテッドの事を知りました。

テストを受けた病院で言われた事よりも遥かに、

「ああ、これが自分が感じてきた辛さだ」と思えました。

 

翌日、みゆさんに申し込みのメールを書きました。

人が信用できない。

当たり障りのない会話は出来るけど、それ以上は出来ない。したくない。

テストを受けたこと、その結果に納得していないことも。

安心できない、も書いた気がする。自分が嫌い、は書いただろうか。

全文そのままはもう思い出せないけど、現状の自分をどうにかしたい一心で、

どうすれば辛さが伝わるだろうかと、何度も書いては消しを繰り返して

とても時間がかかった事は、よく覚えています。

 

みゆさんからの返事に、

「愛着障害のギフテッドだと確信しました」ということと

カウンセリングの日取りについてが書かれていた時、すごくホッとしました。

 

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みゆさんとのカウンセリング初回。早速、問題が発生しました。

 

そもそも私は、学生時代のカウンセリングで

カウンセラーさんというものを全く信用していませんでした。

その内、早く終わって欲しくて心を開いたフリまでするようになったくらいです。

自分の内側なんて、一度も開けて見せた事がありません。

 

結果、完全にパニックになり、

「私の勘違いかも知れない」「私はどこも悪くないと思う」みたいな事を

わーわー捲し立てました。

「私がカウンセリングに全力で臨んでも、クライエントさんにやる気がないとカウンセリングは無駄になる」

みゆさんが言っていたのは、そんな感じの事でした。全くもってその通りでした。

 

話したいのに話せない。話すのが怖い。しかもいきなり怒らせてしまった。

自分でも何をどれだけ詰めたかわからないような、ぎちぎちのクローゼットの扉を

全身で押さえているような感じです。何から始めればいいかなんて、解りません。

 

「考えるから、ちょっと待ってください」

 

が、最初の私のまともな言葉でした。

みゆさんは、「考えるっていうのは、ちゃんと私の事尊重してくれてる感じがするね」と言って

私が話し始めるまで待ってくれました。

 

最初の衝撃が大き過ぎて、初日の事はこのシーンだけが鮮明です。

 

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クローゼットに詰め込んだものを一つずつ出して並べていく。

最初の方は、そんな作業の繰り返しでした。

詰め込んであったものは、大半が家族の事でした。

 

母は、2歳下の弟には優しく、私にはとても厳しい人でした。

早くから塾に通わされ、友達と遊ぶのは禁止、テレビやゲーム、漫画も禁止。

塾から家に帰り着くのは、いつも21時半。

弟はとっくに晩御飯もお風呂も済ませ、2階で寝ています。父は仕事で居ません。

母だけがリビングに座っていて、手を出してくる。

今日あったテストの答案を全部出せという意味です。

 

この時間がとても嫌いでした。

 

母はまず点数を見ます。

100点なら、「ん」とだけ言って返す。

機嫌が悪い日は、「他に100点は何人居ったん?」と聞いてきて、

それが多ければ「なんや簡単やったんやな」と嫌味を言ったり

少なければ「あっそう。でもこんなん、当たり前やからな。天狗になりなや」と言う。

 

100点で当たり前。

一度、苦手な算数で70点代をとり、散々怒鳴られ、ビンタされ、家から締め出されたこともありました。締め出しから戻っても、口をきいてくれませんでした。

塾から帰ってからも23時までは勉強です。

母は私の向かいの席で、新聞紙をきつく丸めて和紙で固めた、最早木材のような棒を握って見張っていました。

私がつまらないミスをする度に、頭を一度、ガツンと強く殴る為です。

 

それが平日毎日。

 

テストについて以外にも、母のそんな所は沢山ありました。

休日、私がどこかで聞いた歌を機嫌よく家で歌っていると、「音痴やなぁ!」と言う。

冬、ささくれた指先を私が気にしていると、「親不孝もんやからや」と言う。

朝、ジャム瓶の蓋が噛み合わず苦労していると「根性が曲がってるからや」と言う。

一番よく思い出されるのは、

春、小学校からの帰り道で見つけたスミレの花を、母に持って帰った時の事です。

萎れないように小走りで帰り、急いで靴を脱いで、母に差し出した時。

母は、ニコリともせずにスミレを見て「私、紫色嫌いやねん」とだけ言いました。

 

こんな時、私はいつも、すごく恥ずかしいような気持ちになりました。

自分がつまらないような、何をしても駄目なような。

母が喜ぶと思い込んで、とんちんかんな事をしでかす馬鹿者みたいな。

顔が熱くなって、目と鼻の奥が詰まるような感じです。

 

母は浪費癖が酷く、父とよく喧嘩をしていました。

喧嘩の所為か、心因性の喘息やら鬱やらで、入院もよくしていました。

 

母が入院すると、平日は母方の祖母が、私と弟の世話に来ます。

土日は父が家事をします。

祖母は、父への不満をよく溢していました。

父は、とても苛々しながら悪態をついて家事をしていました。

弟は、母が早く帰って欲しいと寂しがっていました。

家の中の何処に、誰と居ても、いつもどこか暗い部分がありました。

 

一つ一つのエピソードを取り出す度、

みゆさんは「その時どう思ったの?」とよく聞きました。

私は最初、

「祖母は、母の味方をしてあげたかったんだと思った」とか

「父は仕事で疲れてるのに家事までして、大変なんだろうと思った」とか

「弟は母が好きだから寂しいだろうなぁ、可哀想だなぁと思った」とか

そんなような事しか答えられませんでした。

要領を得ない私に、「他の人じゃなくて、自分自身はどう思ったの?」と

聞いてもらって初めて、私は自分の感情に一切目を向けていない事を自覚しました。

そして、自覚しても尚、それをちゃんと思い出して口にする事の難しさ!

 

滅茶苦茶難しいです。

過去の人生を映像だとして、

私がカウンセリングで出来るようにならなきゃいけない事は

「映像の中に居る自分を完璧に再現して話す事」です。

私がしていたのは

「映像を流して、画面の前で淡々とシーンの説明をする事」でした。

しかも自分のじゃなくて、他人の説明。

 

とにかく、その場その場の自分の感情を掘り下げる。

初めは「いやだった」とか「かなしかった」とか、子供みたいな表現でしたが

何度も繰り返す内に、次第にそれぞれへの不満や怒りが鮮明になっていきます。

 

姉である私の前でだけ、父への不満を平気で話す。

私は母に酷く扱われているのに、どんな時でも母の肩を持つ。

時には、「私の育て方が悪かったんやろか」と母をただ嘆き、泣くだけの祖母が嫌でした。

何処へでもなく、1人で悪態をついて雑に音を立てながら家事をやる父は、

手伝おうか?と声をかけるのも躊躇する程、怖かったです。

母のことが嫌いで怖くて、入院している時が唯一ホッと出来る時なのに

なんにも知らずに寂しいだ何だと甘えてくる弟が鬱陶しかったです

家族全員の遠慮の無さが、痛くて辛くて堪りませんでした。

皆別々の方を向いていて、頭数が足りているだけの「家族のようなもの」の中で

何も出来ず、耐えているだけの自分も嫌でした。

 

誰も苛つかせたくなかったので、料理や家事はすぐに全部覚えました。

祖母は喜び、父も不機嫌になる事は少なくなりました。

浪費癖の母に生活を壊されないように、

年齢関係なく、能力さえあればお金がもらえる仕事に早く就きたいと思い、

漫画家を目指しました(高校生の私は何故か、漫画家しか思いつきませんでした)

 

問題の早期発見、迅速な対策と工夫。

感情をすっぽかして先へ先へと進む癖は、ここで染み付いたんだと思います。

泣いたり怒ったりする暇など、ありませんでした。

 

とにかく、そうして何十年も放ったらかしていた感情ですから、中々うまく出来ません。

見栄や警戒心も中々抜けず、どうにかまとまりの良い言葉で終わらせようとしたりします。

その度、みゆさんは見逃さずにそれを指摘します。

初めは何か、ミスを責められたように感じて言い淀んだりもしました。

でも、不恰好でも良いのでそれを話すと、みゆさんは

「そう思って当然だよ!」と肯定してくれます。

「何を思ってもいい、言ってもいい」のは心地いいです。

心地いい、と感じられるようになる事自体も、

カウンセリングを受ける前の私からすれば、すごい事だと思います。

 

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記憶と感情が一致していった頃から、変化がありました。

良いことはより嬉しく、悪いことはより腹立たしく。悲しみも同様です。

家族に対しての嫌悪感や自分の無力感がいつまでも尾を引く日があったり、

いつもならどうでも良いと思っている筈の、他人の悪ノリに怒ったり。

生理前は何をしても涙が溢れてきたり、眠れなかったり、絶望感に襲われ続けたり

感情の振れ幅が大きくなって、それに振り回される様になりました。

 

この時ばかりは、どうしても楽になりたくて、「つらくて堪らない」と泣きながらみゆさんに訴えました。

 

みゆさんは、

「これは一時的なものだよ」

「ずっと抑えてきたものを戻したから、その反動なんだよ」

「苦しいけど、絶対におさまるものだから、どうか耐えて」と泣いていました。

一緒に「つらいね、つらいね」と言って、私よりも泣いてるようでした。

2人で泣いて、頭の中は暴風雨の様だったけど、その最中に腑に落ちるものがありました。

 

家族と私の気持ちが一緒だった事なんて、ほとんど無かったんじゃないだろうか。

自分の辛さで泣いて怒って、それを私にぶつける人ばかりで

私の辛さを思って泣く人なんて、居ませんでした。

 

みゆさんはよく、みゆさん自身の失敗話もしてくれます。

それを聞いてると、私もみゆさんと一緒の気持ちになりました。

みゆさんの悲しい話で、私が泣いたこともありました。

自分で自分の感情を掘り下げるだけじゃなくて、

この「一緒に、一緒の気持ちになる」も、私にとってすごく大事な体験でした。

 

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カウンセリングに慣れ出した頃、周りの人間関係が変わりました。

誰かと居る時に必ず持っていた、「当たり障りのないライン」を越えてみようと思い始めた頃です。

 

今までどうして、こんな人と平然と付き合えたんだろう?と思うような

面倒臭い人間が、友人に沢山居ました。

相手にすると私が擦り減って終わるので、次第に疎遠になりました。

逆に、こんな面白い人と、何故もっと話さなかったんだ?と思うような人も居ました。

 

出版業界は、毎年大きな新年会を開きます。

地方に居る作家も含めて全員東京に集まるので、その時だけ、同業者に会えます。

同じ雑誌で働いているのに、会える機会は年に一度、2時間。

前の私なら、そんな限られた時間会ったって、意味がないものだからと心を閉ざして、

隅っこで飲み物を飲むか、喫煙所に篭っていつも通りやり過ごしたでしょう。

カウンセリングを始めた翌年の新年会で、

私はなんと、気になっていた作家さんに声をかけました。

笑顔で話しかけ、その人の作品の何が好きか、仕事以外の好きな事も色々。

 

2時間、あっという間でした。

会の最後にその人とは連絡先を交換し、

今でも電話しながら原稿を一緒に頑張る仲です。

一緒に会話をしていた時、他の作家さんも寄ってきて、何人かと話しました。

限られた、意味のない時間では、全くありませんでした。

 

恋人も出来ました。

みゆさん以外に、自分の中を話せる相手が少しずつ出来てきて、

楽しい期間がやってきました。

 

何でもやってみたい、誰かと話してみたい。

人馴れし始めた、好奇心だらけの幼稚園児です。

新しく出来た友達や恋人の話を、みゆさんにしました。

みゆさんは、私にあった良い事は勿論一緒に喜んでくれますが、

舞い上がった私が見逃すような、小さな不満や苛立ちを見つける事も忘れません。

この時期から、根気よく出来ていた筈の「その時どう思ったの?」が煩わしく感じる様になりました。

 

折角出来た新しい人間関係を否定されるような気がして怖かったのです。

本当はそんな事は全くなく、その新しい関係を失いたくないが為に、

私がこれまで家族の中でしてきた事を、感情に蓋をしてやり過ごす事を、危惧しての事でした。

勿論これは後になって理解できた事で、当時の私は

「折角楽しい感じになってきたのに、嫌なことはあまり考えたくないな」

という気持ちでした。

 

確かそのくらいの頃に、半年間のお休みをみゆさんに提案されたと思います。

感情の掘り下げも大事だけど、子供のように手放しで楽しむのも必要だから、と。

何があっても2週間我慢すればみゆさんにぶち撒けて助けてもらえる。

それが半年間も無くなるというのに、大丈夫!と即答する程に浮かれていました。

みゆさんとの通話を切る間際で薄々実感して、切ってから本格的に途方に暮れました。

 

寂しい時に寂しいと言う。

愛情表現や「甘える」ことも、「怒る」に次いで、私の苦手なことでした。

 

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でも、結果としてカウンセリングを休んだ半年間は、私を随分と成長させてくれました。

ひたすら「その時どう思った?」を自分の中でやりました。

どう思ったって構わないのは、今までのみゆさんとの会話の積み重ねで知っています。

何が嫌だったのか、嬉しかったのか、悲しかったのか、腹が立ったのか。

毎日毎日、自分に集中して過ごしました。

 

生理前の不調の時は、焦らないように、自分を責めないように気をつけました。

「どうしたってダメな時、あるある。私もあるよー」

みゆさんの言葉を思い返して、ジッとやり過ごす。

どうしてもどうにもならない時、人に頼るという事も覚えました。

逆に、人を拒む事も。

 

これを助けて欲しい、とお願いする時も

今日はちょっと元気がないから、また今度ねと断る時も

今お話したい気分なんだけど、電話してもいいかな?と少し甘えてみる時も

「その時どう思った?」と間違えずに

本心を素直に口にすると、嫌な顔をする人は居ませんでした。

 

そうして何とか、自分に集中しながら、半年を過ごしました。

 

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始めたばかりの頃、早く楽になりたくて、ゴールが何処か知りたくて

時折、みゆさんに「いつ終われますか?」と聞いていました。

 

休止を終えてからは、またもう一度同じ過去の話をしたり、

友人や恋人の話をしたり、その時々の感情を深掘りしたり。

何気ない言葉がきっかけで忘れていた記憶が出てきて、それを話して泣いたり怒ったり。

カウンセリングではない日々も、

2週間耐えればみゆさんがどうにかしてくれる」ではなく、

休止の時みたいに、自分で自分の気持ちの浮き沈みに注意を払って過ごす。

 

そうしていると、2週間はとても忙しく、1ヶ月に感じる事もありました。

「いつ終われますか?」なんて気にしていられなくなった頃に、

みゆさんの方から「卒業も近いねぇ」という言葉がちらほら出てくるようになりました。

 

人間関係が変化したのは話しましたが、この辺りでは仕事にも変化がありました。

担当編集からの、台詞や表情の修正が減りました。

「いい表情、入りましたね」と言われる事も増えました。

私の反応が、人間らしくなったからだと思います。

それでも時折くる修正も、理屈が解るようになりました。

 

生きる為に始めただけの仕事が、少しずつ、好きになれました。

 

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カウンセリングを始めて29ヶ月。

 

「これだけの事を抱えて、よく無事で生きてくれたね」

最初の頃、みゆさんに言われた事をよく思い出します。

 

いつかどこかで私の我慢が切れて、

母親か自分、もしくは世間の誰かに何かをしても、おかしくはなかった。

自分でもそう思います。

みゆさんとのカウンセリングを重ねて、

詰め込んでいた荷物が少しずつ軽くなっていくのを感じる度に自分への感謝と愛おしさを実感しました。

不思議なことに、その気持ちが増していく毎に、

あれほど気になっていたガスの元栓や施錠が気にならなくなりました。

人混みや賑やかな場所は相変わらず苦手だけど、

音や色の数に圧倒されてトイレに逃げ込む事も無くなりました。

忘れ物は、時々します。

でも、今まではただ無力感や罪悪感に苛まれていただけだったのが

「お茶のパックくらい、また明日買えばいいや」

「担当編集に電話して謝って、どうにかならんか相談してみよ」

といった具合に、程よく無責任な人間になれました。

 

程よく無責任。

聞こえは悪いかも知れませんが、これは重要なことです。

育った環境の所為で、私はずっと、自分に関係のないことの責任まで負う性格だったから。

カウンセリングを始めて、良い人間関係を増やし、人と話す機会が多くなると解った事があります。

みーーんな、程よく無責任です。

でもそれで、世の中うまいこと回ってます。

 

昔のような、

「ちょっとでも気を緩めると誰かに邪魔されるぞ」といった

凄まじい気力、孤高の強さみたいなものは無くなってしまったけど

「ちょっとポカやっても誰かと何とかすりゃいいや」みたいな

気の抜けた、厚かましい強さのようなものが生まれました。

どちらの自分も好きです。

 

みゆさんにもらったものは数え切れない程ありますが、

「自分の気持ちを無視しないこと」

「一緒に、一緒の気持ちになること」

「程よく無責任になること」

これが、自分と、自分の周りを大きく変えてくれたと思います。

 

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カウンセリングを受ける前からずっと、長い連載をしていました。

カウンセリングの最中に、それが完結し、新たな連載が始まりました。

カウンセリングが終わる頃、その連載も完結しました。

今は、また新しい連載の準備をしている所です。

 

自分でそれぞれの作品を読み返すと、全然違います。

自分の描いたキャラクターの表情、言葉が活き活きとして感じます。

カウンセリングを晴れて卒業し、生まれ変わった自分がこれから作るものが、またどう変わるのかが楽しみです。

 

母の借金地獄から自分を守る為に始めた漫画家でした。

何を描いていても、いつ、母から「お金がない!!」とヒステリックな泣き声の電話がかかってくるかと心底怯えていました。

これからは、ただ、自分の理想の為に描いてみたいです。

自分も他人も大嫌いだった私が、こんなに変われたんですから。

私も、みゆさんのように、誰かに寄り添う、救うお話を描きたいです。

 

長くなりましたが、最後まで読んで下さって有り難うございました。

カウンセリングを受けようか迷っている方の、何かのきっかけになれるでしょうか。

みゆさんに、どーんとぶつけて、一緒に泣いて怒って笑ってみてください。

別々のように感じて苦しかった、自分の内と外が一致していきます。

自分のこと、ぎゅっと抱きしめてやりたくなる位、大事に思えるようになります。

何が嫌で何が好きか、色々なことが鮮やかに見えるように変わります。

絶対に、大丈夫です。