逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

ダサい私

私のコンプレックスは山ほどあった。

 

自叙伝に書いてきたが
コンプレックスでは無い所を探す方が早いぐらいだ。

 


それでもまぁ
40歳になるまで必死に修正してきたおかげで
色々とマシになってきたと自分では思っている。

 


ところが
修正を続けてきても
全くマシにならなかったコンプレックスがある。

 

 

 

それは「ダサい」ということである。

 

 

 

ダサいは死語だろうか。

 

他の言葉でいうと
不格好というか間抜けというか。

 

でもやっぱり感覚的にぴったりくる
ダサいという言葉を使わせてもらおう。

 

 

 


ダサいのは
センスを磨けばいいと思うかも知れない。

 


私もそう思っていた。

 


だから必死にオシャレをしたし
流行についていこうとしたし
センスが高いとされるものに触れた。

 


その結果・・・・

 


ぱっと見はダサくなくなった。

 

 

 

オシャレをして
流行を知っていて
センスの高いとされているものを選ぼうと思えば選べる。

 

 

 

でもね

 

やっぱり私はダサいままだった。

 

 

 

この私に染みついているダサさは一体何なんだろうと考えてみた。

 

 

 


思い出してみると
私でもちょっとカッコイイ時代があった。

 

 

 

中学生の一時期
私はクールなキャラクターだった。

 


いつも冷静で控えめ。

 

口を開けば
その場にふさわしい的確な言葉。

 

頭の先からつま先まで意識をめぐらせていて
自分をかっこよく見せるために一挙手一投足を意識していた。

 

人に対して自分から近づいていかない。馴れ馴れしくしない。

 

一歩引いて自分も人も見ていた。

 

 

 

こんな感じだったから
大人っぽいだとか完璧だとか言われ一目置かれることが多かった。

 

 

 

このまま行ければ良かったのだが
長くは続かなかった。

 

 

 

そう
無理をしてたからだ。

 

 

 

本来の私の姿は
このキャラクターと正反対だ。

 


情熱的でエネルギーに溢れている。

 

いつも話したいことやアイディアがポンポン浮かんできて
黙っていられない。

 

小さな事に感動して、いちいち興奮したり喜んだりと
感情表現が大げさ。

 

目の前の人と話すことや興味のあることに夢中になって
自分がどう見られるかなんてどうでもよくなってしまう。

 

人が好きすぎて
自分から近寄らずには居られない。

 

 

 

・・・

 

 

 

これじゃあ
どうしたってダサいよなぁとやっと気づいた。

 


かといって
またかっこつけようとすると
私が私で無くなってしまう。

 

どうしたらと必死に考えた。

 


ひらいめいた。

 

この自分のままダサさを軽減する努力をしよう。

 


さっき言ったように
せめて外側だけでもかっこよくしようと
洗練された雰囲気を出そうと努力をした。

 


見た目はもちろん

 

言葉遣いも公の場ではきちんとする。

 

情熱も多くの人の目に耐えうる表現に留め
自分の中で燃やし続ける。

 

夢中になって話したり
距離を縮めたりする相手は深い関係の人のみに留める。

 

 

 

これでだいぶ人並みになったような気がしている。

 


まだたまにポロリと
情熱や興奮がこぼれてしまうが
それぐらいはご愛敬だ。

 


もうあとは
自分のような人間は
ダサいと思われるのは当たり前なんだと受け入れて

 

自分の幼さや荒削りなところ
無鉄砲なところをなくさないようにしようとして
今に至る。

 


いつかは歳をとって
エネルギーがなくなって
なんとなく格好良くなるんじゃないかと希望を持ちつつも

 

人生の先輩方の
今の私のようにエネルギッシュなままの姿をみると

 

私は多分このまんまだろうなとも思っている。

 

 

 

最近はこんなダサい私が好きになってきたし
おんなじようにダサい友人達も愛しくて仕方が無い。

 


ダサいって情熱だ。
ダサいって愛らしさだ。

 

なんてよく分からないけど
まとまらないまま終える。

 

 

 

 

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