逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

苦労はした方がいいのか、しない方がいいのか

苦労はしたほうがいいのか
苦労はする必要が無いのか

 


この論争を見かける度

もやもやとした何とも言えない気持ちになります。

 

この論争は要らないと私は思うんです。

 

答えを出しても

きっと誰かのためにはならないはずですから。

 

 


この論争自体が
多くの人を無為に傷つけてしまっています。

 

 

 

自叙伝に書かせてもらっていますが

私自身は人よりも多く苦労を経験した側の人間に入ると思います。

 

仕事上、多くの人の苦労の話を聞いてきましたし
元々の性格もあり普段からよくそういう話を聞いてきました。

 


その経験から私はこう考えます。

 


「苦労」には
様々な形があり頻度やタイミングや期間の違いがある。

 


そんな捉えようも無い「苦労」を一括りにして
良いか悪いかを語ることに意味があるのだろうかと。

 

 

 

私と同じように

生まれた環境によって
自分ではどうしようもなく、逃れようもなく
子どもの頃から苦労をして育ってきた人達は沢山います。

 


そんな人たちが

 

「苦労なんて無ければない方が良い」
「苦労をすると人格が曲がる」
「苦労をした人は、他人にも苦労を強いる」

 


こんな言葉を聞いたら
どんな気持ちになるでしょうか。

 


幼少期から苦労をしてきた人は
当たり前ですが
自ら選んで苦労をしてきたわけじゃありません。

 

偶発的に
恵まれない環境に生まれただけで
誰にだってその可能性はあったと思うんです。

 


不幸にも
運悪く苦労をすることになった人が
「苦労」は良くないものだと言われてしまったら

 

まるで
自分の人生を全否定されたような気持ちになります。

 


もう「苦労」をしてきてしまった事実は消えないんですから。

 


ただ取り返しがつかない絶望や後悔の気持ちを
ずっと持たされることになるんです。

 


傷ついているのは
このような人達だけではありません。

 

 

 

表向きは
お金持ちの家庭に生まれ
教育熱心な両親を持ち十分な教育を受け

とても恵まれているように見えるけれど

 

養育過程で
愛情を十分に与えられなかったり
厳しくしつけられて自由が全くなかったりして

見えないところで「苦労」をしてきた人たちがいます。

 


このような人たちは

外から見て「苦労」に見える出来事に出遭わずにきて
順風満帆に楽をして生きてきたと人から思われていて
自分自身もそう思い込んでいます。

 

人から恵まれていると決めつけられて
恵まれているから苦しいと言うことも感じることも許されず
一人で抱えて苦しんでいます。

 

分かりやすい「苦労」をしていないという
劣等感や罪悪感にさいなまれているようでした。

 

 

 

あるいは

本当に環境に恵まれ、周囲の人に恵まれ、才能に恵まれ
あまり悩んだり苦しんだりすることなく

順調に人生を歩んできた人たちがいます。

 


このような人たちも
外から見ても自分で考えても分からない「苦労」をしています。

 

いつも人から嫉妬の目を向けられる。
立ち止まって考える時間が無かったせいで混乱している。
壁にぶつからなかったせいで休まず進み続けなければいけない。
苦しんでいる人の心に寄り添えない。

 


年齢を重ねるごとにこのような苦しみは増えていき
苦労をしていないと思い込んで
劣等感や罪悪感に悩み苦しんでいます。

 

<恵まれた人の苦悩>

  

 

そんな人たちが

 

「苦労をしていない人間は人の気持ちが分からない」
「苦労をしなければ立派な人間にならない」
「苦労をしていないから甘いんだ」
「恵まれている人間は苦労を知らない」

 

こんな言葉を聞いたら
どんな気持ちになるでしょうか。

 


先ほどと同様
生まれた場所はその人が選んだわけではありません。
外から見て恵まれた環境で育ったことは
その人のせいではありません。

 

偶然、なんの障害にもぶつからずにきたことは
その人のせいではありません。

 


恵まれた環境で育ってきたこと、大きな壁にぶつからなかったこと
それはもう変えられません。

 


環境に恵まれていたとしても外から見ても分からない「苦労」は
本当に沢山あります。

 


それなのに
「苦労」をしていない存在だと決めつけられて
分かりやすい「苦労」をしていないことを未熟だと言われたら

 

自分の人生を全否定された気持ちになるでしょう。

 


必死に頑張って生きてきたのに
人より楽な人生だと思わされて

 

まるで
これからもっと苦しい思いをしていかなきゃいけないような
そんな気持ちにさせられてしまいます。

 

 

 

「苦労」はしたほうが良いのかどうかという論争は
人を大きく傷つけるものですよね。

 


自ら選択したものではなく
もう変えられないものを否定することに意味があるとは思えません。

 

外から見てその人が苦労をしたかどうかは誰も分かりません。

 

 

 

自分自身の経験を大事にするために
自分と同じような仲間達と

 

「苦労」をしてきて自分は大きくなった
よかったと語り合ったり

 

まっすぐに育ってきてよかったと胸をなでおろしたり
するのはいいですよね。

 

 

 

自分の思いを口にする以上
人を傷つけないことは難しいですが

 

「苦労」について多くの人に語るなら

主語を大きくしないで
もっと詳細に自分の経験とともに語ってもらえたら

傷つく人は減るのかなあと私は思います。

 

 

 

 

 

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