逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

自叙伝24 おせっかいな私

私はおせっかいだった。

 


ほどよいおせっかいであれば
人も喜んでくれるだろうし
自分にも大きな負担はないと思う。

 

私のおせっかいは度を超していて
人を不快にさせたり
自分を追い詰めたりしていた。

 

生きづらい原因のひとつだったと思う。

 


人の世話をやくのは
そうすることに依存しているからだとか
人を支配したいからだとか
色々と理由をつけられる。

 

たしかに
大人になってからのおせっかいな私は
そういう部分もあったと思う。

 

しかし
幼少期から度を超したおせっかいだった私は
それでは説明がつかない。

 

 

 

小学校に上がる前から既におせっかいだった。

 


弱くておどおどしていて色々出来ない子がいると
自分のことをやる前に手伝っていた。

 

自分のことが終わって遊び回っている子が
困っている子を手伝わないことを怒っていたことも思い出す。

 

 

 

誰かに親切にする時。

 

「困っているようだ。困っている人は助けなければならない」

 

「困っているようだ。面倒だけど人の目があるから助けようか」

 

こんなふうに
考えてから親切な行動をとるのではないだろうか。

 


私のおせっかいを思い出すと
おせっかいは反射的だった。

 


怖いものから逃げるように
ボールが飛んできたらよけるように

 

困った人がいたら手を出す。

 

完全に反射的だった。

 


これが本当にいけなかった。

 

 

 


図工の時間

 

工作が人よりも大幅に遅れていて
やり方が分からないで困っているように見える子がいた。

 

私は、かなり早く完成間近である。

 

バッと席を立ち

いきなり教えにいく。

 


教えるときに私が手を加えてしまう。

 

あまり口数が多くないその子は
「・・・やらないで」
と泣き出してしまう。

 


やり方が分からなくても

時間内に完成出来ないとしても
自分の作品を自分だけでやりたいのは当然だ。

ひどいことをしてしまった。

 

 

 


算数の時間

 

初めて使うコンパスに戸惑っていて
中心がずれるし、ところどころしか書けなくて
上手く円が描けない子がいた。

 

私はすぐにコツをつかんでいて
それを誰かに教えたかった。

 

聞かれてもいないのに教え出す。
「この針をもう少し刺す感じ」
「力を抜いて指をくるっとするの」

 


その子は私を押す。
「頼んでない」
「先生に教えてもらう」

 


そんなに仲良くもないし
優秀でもない私に教えてほしくなんかなかっただろうし
先生に教えてもらいたいと思っていたのかもしれない。

 

本当に頼んでもいないのに
勝手に教えられるなんて迷惑なのは当然だ。

 

 

 


委員数人で冊子を作る時があった。

 

一人50部ずつノルマがあった。

 

先生がちょっと席を外した。

 

私はサクサクと順調にいって40部程度終わっていた。
目の前の子がまだ10部程度しか終わっていなかった。

 

急に私が
「私早いから手伝うね」
と勝手にその子の分を手伝い出す。

 

その子の分が終わりそうな時に
先生が戻ってきた。

 

その子のを手伝っている姿を見て
「竹田は終わったのか」と当然聞いてくる。

 


まずい。怒られる。
と思いながら

 

おずおずと「いえ・・・まだ・・・」

 


すると
「終わってない竹田に手伝わせるなんて!」
と先生は私が手伝った子を怒る。

 

私は
自分が勝手に手伝ったことをすぐに話せば良かったのに
怖くなってパニックになって言えなかった。

 

その子も
やらせてなんかいないと言わなかった。

 


私の勝手なおせっかいのせいで
こうやって誰かを悪者にしてしまったことがあった。

 


こんなことが続いたから
みんな警戒して
私が近づいていくと嫌な顔をして

 

「みゆちゃんおせっかい」
「別に頼んでない」
「自分のことやりなよ」
と言うようになった。

 


私の優しさをみんなは嫌がる。
なんていじわるなんだろう
と思っていた。

 

今思えば当然である。

 

みんなの方が被害を受けているのだから。

 

おせっかいされる側は本当に迷惑だったと思う。

 

 

 


あとは

 

クラスの誰かが牛乳を吐いた掃除だったり
メダカの水槽の掃除だったり
うさぎの糞の掃除だったり

 

みんなが嫌がる仕事を私は率先してやった。

 


係や委員も
みんなが面倒でやらないものを率先してやる。

 

だから小学校、中学校、高校と
学級委員をやっていたのかもしれない。

 

 

 

嫌なこと、面倒なことを

誰かがやらなければならない。

 

クラスで役割を決めるときに
みんな嫌がり沈黙して嫌な空気が流れる。

 

これに耐えられず私は手をあげる。

 


そしてみんなの笑顔が戻る。
みんな「ありがとう」と言ってくれる。

 

この瞬間が幸せだった。

 


みんなが嫌がれば嫌がるほど
「私がやらなければ」
と燃えてくる。

 


こんなことが続くと
もうそういう茶番すらしてくれなくなる。

 

いきなり
「竹田さんやってくれる?」
となる。

 


私はみんなのヒーローの気分だったのに
慣れていくと

 

実際はその逆になり

 

「ただ嫌なことはコイツにやらせておけ」
という扱いに変わっていたのだ。

 

 

 


この執拗に人におせっかいをするのは何故なのか。

 

 

 

多分私は
目の前の人の困っている気持ちを感じて
その困っている気持ちを感じるのが嫌で
何とかせずにはいられなかったのだと思う。

 


自分のことは見えないけれど
人のことはよく見えるから
見える方を優先させてしまったのだと思う。

 


自分が喜びを感じるのは難しいけれど
人のことを喜ばせる方が私にとっては簡単で
同じだけ気持ちが良いから
自分のことを置いて
人の気持ちばかり優先したんだと思う。

 


自分は何の価値も無い人間だと思っていたけれど
人を助けることが出来れば価値が生まれると思って
人を助けたかったんだと思う。

 


要するに私は
優しいのではなく
自分のために人を優先させているのだ。

 

だから私は自分のことを優しいとは思えない。

 

 

 

この癖が私を追い詰めることになったのは
相手の迷惑になっていたことだけではない。

 


このような癖を持つ私の周りには
おせっかいを迷惑とは思わない人が集まってくる。

 


このおせっかいを迷惑と思わない人は

 

「勝手にやっているから感謝はしなくていい」
「好きでやっているからどこまでもやらせていい」
「おせっかいを迷惑とは思わないし当然のこと」

 

という人なのだ。

 


そういう人は
感謝をしないどころか
何かをやってもらうのは当然のことだからと
喜んでもくれない。

 


それを私は
努力が足りないのかも知れない
もっとやれば喜んでくれるかもしれない
と思い込んでいた。

 

そうして私は
ひたすら自己犠牲をして尽くして心を壊していった。

 

 

 

いまだに
こういう反射的におせっかいをする癖が出そうになる。

 

でも今は

 

「相手は本当に困っているか」
「相手に迷惑ではないか」
「相手は人に手伝われることが嫌ではないか」

 

相手の気持ちを考えられるようになった。

 


「相手はちゃんと喜んでくれているか」
「相手も私を大事にしてくれているか」
「相手はギブアンドテイクのバランスをとろうとしてくれているか」

 

自分を大事に出来るようになった。

 

 

 

おせっかいな私は
ずいぶんと人を不快にさせて
自分を追い詰めてきたけれど

 

こうやって上手におせっかいを使えるようになってからは
ほどよい優しさで人の役に立てて
人からも感謝されるようになった。

 

とても幸せなことである。