躁鬱の波をほとんど感じなくなってしまった。
もちろん良いことなのに少しだけ寂しい。
カウンセリングをしていると
クライエントさんも同じ経験をして同じようなことを話し出す。
「なんだか自分じゃないみたい」
「ものたりない」
・・・わかるよ。わかる。
躁鬱の波が無くなっていくことは良いことなのに
ずっとすごい波乗りをしてたからさざ波が物足りない感じがするのね。
私も何だかんだ躁鬱の波に乗っている自分が好きだ。
人に迷惑をかけないなら躁鬱の波を味わっていたい。
でも私にはそれがもうできなくなった。
頭で考えてたんじゃなく体で感じていたんだけど…
自分の思う完璧なカウンセリングをするためには、波があったら出来ない気がして、とにかくプライベートを淡々と平穏に・・・と心がけてた。
何故なのか今ゆっくりと考えてみると
私が目指す完璧なカウンセリングは、超外向的かつ超内向的じゃなきゃできないからだと思う。
一般的なカウンセリングは内向的であればできるかもしれない。
カウンセラーとして正しい態度を崩さず
クライエントの思考を邪魔しないように
自分の存在を消して鏡のようにいる
これが正しいカウンセリングで、上手く進んでいくはず。
でも私のクライエントは愛着障害のギフテッド。
カウンセラーとしての役割を果たして、自分の存在を消して鏡のようにいるだけでは上手くいかない。
ギフテッドは真実を望むし対話を望む。
カウンセラーとして自己開示をせず清く正しい態度を保つだけでは
ギフテッドはだんだんと違和感を持つようになる。
なんとなく「うそ」を感じてカウンセラーに信頼をおけなくなって
自分の話をする意欲を無くしていく。
だからカウンセラーとしての枠をギリギリ守りながら
本当の自分をさらけ出していくんだけど
これは相当に外向的な部分を使う。
愛着障害がある人のカウンセリングは、外向的な部分を使わないとできないと思う。
カウンセラーは受け身で居ることが正解だとされてる。
でも私は
愛着障害の場合はそれじゃ途中で上手くいかなくなるんじゃないかと思うんだよね。
カウンセラーがカウンセラーらしい態度を保って受け身でいると
どうしても治す側、治される側
教える側、教えられる側という空気が生まれてしまう。
そうすると
愛着障害の人が苦しめられてきた親子関係の再現になって
どんなに頭で分かっていても自分を解放できなくなるし、反論できなくなるし、強く出られなくなる。
愛着障害の回復には
自分を絶対的に愛してくれる人に、どんなことを言ってもいいし、反抗してもいいし、自分は嫌ってもいい。それでも相手は愛し続けてくれる。
こんな経験が必要だと思う。
自分はカウンセラーだからクライエントに、言うことを聞いてもらえる、素直に従ってくれる、自分は支えてるから関係は大丈夫・・・
なんてあぐらをかいてたら上手くいかない。
言うことを聞いてもらえないけど向き合う、反抗的だけど向き合う、嫌われても自分は愛し続ける…
これはカウンセラー側が怖がって自分の中に閉じこもっていたらできないとても勇気の要ることで、超外向的じゃなきゃ出来ないと思う。
超外向的で居続けることはとてつもないエネルギーが必要で、日常の波を楽しんでいる余裕が私にはないみたい。
悲しいけどもともと体が弱かったので仕方がない。
これだけじゃない。
ギフテッドの頭の中は洪水だ。
360度色んな方向にすごい勢いであふれ出てる。
沢山の知識があって論理的で創造的で想像力豊かで・・・
その頭の中を一緒に整理してあげるためには超内向的じゃなきゃできない。
自分の頭をクリアにしておかないととてもじゃないけどできない。
超内向的でいるためにもすごいエネルギーが必要で日常を好きなように頭を使って楽しんでいる余裕が私にはない。
こんな感じで、自分が理想とするカウンセリングをするためには日常をどう波が無く過ごすかが重要で
それを完璧にやってきたから
今は驚くほど波の無い静かな人生になってしまった。
私はもともとはお調子者でお祭り野郎だったので
このままだと良くないような気がしてる。
開業してから4年
理想とするカウンセリングを追求することが私の人生と思っていたけど、同時に自分らしい人生を送らなくちゃいけないよなと思い始めてる。
もうちょっと仕事を減らしても生活出来るようにしていけたら
理想のカウンセリングは出来つつ
お調子者でお祭り野郎の自分で
自分の人生にも波を作れるかなぁ。
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