逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

自叙伝19 ネグレクトに近い養育

私が被った虐待の一つ、ネグレクト。

 

本当のネグレクトというほどのものではないかもしれないが
ネグレクトに近い養育を受けていたのだと大きくなってから気づいた。

 


養父が気位が高かったから

 

養父の食事をきちんと用意するために
夕食だけはきちんと作られた食事が与えられていたし

 

養父の周りは綺麗にしておかなければいけないから
居間の掃除はされていたし
洗濯もされていた。

 

養母は外面が良かったから
「水商売だからと言われたくない」
と言って学校にまつわる最低限のことはやっていた。

 


でも今思い出してみると

 


養父に関係の無いところでは何も与えられなかった。
朝ご飯や昼ご飯は用意されない。

 

家庭訪問や三者面談の時はちゃんとしているが
それ以外は適当で
何かあれば
「私が変な子どもだから困っている」
と私のせいにしていた。

 


日々
子どもながらにずっと困っていた場面を思い出す。

 

その困り事をどうやって自分で切り抜けるかを考え
対処し続けていたことを思い出す。

 


小学校の頃を思い出すと
学校生活を送る上で
家庭で用意しなければならない物が多すぎていつも困っていた。

 

鉛筆
ノート
三角定規
コンパス
色鉛筆
絵の具
習字道具
彫刻刀
エプロン・・・

 


先生が
「授業で使うので○日までに用意してください」

 

こう言う度に
私はドキドキが止まらなくなった。

 


授業で絶対に必要な物なのだが
養母にそれを伝えると

 

必ず嫌な顔をされる。
ため息をつかれる。

 

そのあと養母は養父に報告する。
「お父さんこれ必要らしいんだけど・・・」

 

すると養父は
「またかよ」
「金食い虫」
「ごくつぶし」
「何の役にも立たねぇのに金ばっかりかかるクソガキ」

 

こう私を罵る。

 

学校で必要な物を報告する度に
自分は人のお荷物で迷惑な存在である
と思い知らされる。

 


だから
毎度毎度
授業で必要な物を養母に伝えるのが苦痛だった。

 


いつ伝えようか。
機嫌の良いタイミングを見計らおう。
なにげなく伝えてみようか。

 

そんなことを考えているうちに
伝えることを忘れてしまう。

 


伝えられなかったり
伝え忘れたりして授業で必要な物を用意できなかったと
前日や当日に気づく。

 

絶望する。

 

また大きな恥をかくことになり
人に迷惑をかけることになるからだ。

 


当日、授業が始まる。

 

その授業で初めて使う物だから
みんな色めき立っている。
嬉しそうに張り切って必要な物を机の上に並べる。

 

私だけ下を向いている。

 


「みゆちゃん忘れたの?」

 

そう言われた瞬間
今にも泣きだしそうになる。
力をグッと入れて気持ちを押し込めて顔をあげる。

 

ヘラヘラしながら
「あぁまた家に忘れちゃった」

 


授業が始まると先生に
「竹田さん、また忘れたの」と苦笑いされる。

 

友人に
「ごめん。貸してくれる?」とお願いすると

 

「えーいつもじゃん」
「私が使えなくなるじゃん」
こう言われる。

 

それはそうだ。

 

いつも借りながら作業をするから
友人だって使いたい時に使えなくなることになる。

 

優しい友人ですら
嫌な顔を浮かべるのを見るのがつらかった。

 


それにいつも
私は借りながら短い時間で作業をしたりするから
楽しむことも
ゆっくりと集中して自分の力を出して作業をすることも出来なかった。

 

 

 

この一連の流れは
子ども時代に何度も繰り返された。

 

今思い出しても胸が痛くなる。

 


あまりにこんなことが続くので
学校から養父母に連絡がいく。

 

そして恥をかかされたと烈火のごとく怒り出す。

 

「お前が言わねぇから、こっちが買い与えねぇみたいじゃねぇか!」

 

 

 

こう言われていたから
ずっと自分が言い忘れるのがいけないんだと思っていた。

 

怖くて言えなかったのだ。
言っても言わなくても結局は地獄だ。

 

 

 

お弁当。

 

小学校中学校は
このワードに震え上がった。

 

朝方に仕事が終わる養母にお弁当を頼むなんて
その頃の私にとっては大変なことだ。

 

スナックの料理や
父親の好む茶色い料理しか作ってこなかった養母。
お弁当は当然高校生男子のようなものになる。

 


私が小学校の頃
お弁当というと一大イベントで
みんなは「やったー」と大騒ぎ。

 

私はお弁当なんて楽しみなわけがない。
毎日の給食が楽しみだったんだ。

 


女の子は特に
お母さんのセンスや手間暇かけた愛情を計りあっているように
まじまじと確認しあう。

 

「これとこれ交換しよう」
「〇〇ちゃんのウィンナー美味しい」
なんてお互いの家庭の味を確認し合う。

 


みんなのお弁当は

 

可愛らしいお弁当箱に
赤いプチトマト
綺麗に焼かれた黄色い卵焼き
たこさんウインナー
ミートボール・・・

 

とにかく可愛い。

 


この時代にコンビニや冷凍食品はない。
あったらどれだけ助かっただろうか。

 

私はご飯に大きな梅干し
何らかの茶色いおかず。
運が良ければ醤油が入っている茶色い卵焼きつき。

 

お弁当を忘れることもあった。

 

そんな時は
スナックで出された物の残りを詰め込まれる。
タッパーのニオイがしみこんでしなしなの野菜炒め。
伸びきった焼きうどん。

 


それすら用意できない時は
朝、先生にこそっと「お弁当を忘れた」と伝える。

 

あくまでも
親は作ったけど自分がカバンに入れ忘れた体で伝える。

 

親がお弁当を忘れるなんて想像できない先生は
いとも簡単に信じる。

 

そして
「みゆちゃん、お弁当持ってくるの忘れちゃったので
 みんなのを一つずつ分けてあげてくださーい」
なんて大きな声で言う。

 

悪いのはいつも私だ。

 


友人に借りたお弁当の蓋に
一つずつおかずを分けてもらう。

 

いじわるな男子は
「竹田、恵んでもらってるくせに一番豪華なのな」
なんて言う。

 

クラス中のみんなに恵んでもらわなければならない屈辱。
今なら笑いながらもらえるけれど
子どもの頃の私には
言葉にならないほどの恥だった。

 

 

 

こんなことの連続で

 

やはり自分は
いつも人に迷惑をかける人間なんだと強く刻まれた。

 

 

 


運動会も最悪だ。

 

ほとんどの親が応援に来る。

 

私も一年生か二年生の時だったか
養母がお弁当を持って来ると聞いた。

 

とても純粋な私は心から嬉しくて
それを聞いた日は
「ありがとう、ありがとう」
と何度も言ったと思う。

 

異常に喜ぶ私を見て
養母も照れくさそうに笑っていた。

 


運動会の日
朝から昼が来るのが楽しみで仕方が無くてソワソワしてた。

 

昼になると一目散に保護者席に走って行って
養母の姿を探した。
端から端まで必死に探した。

 

方々で
家族が楽しそうにお弁当を囲んでいる。

 

今にも泣き出しそうな気分で探し続ける。

 

見かねた友人のお母さんが
「お母さん遅れちゃってるね
 一緒に食べようよ」
と言ってくれる。

 


もう養母が来てくれることしか受け入れない私は
その親切すら振り払い
「いい!待ってる!」
とじっと養母が来るのを待ってた。

 

周囲の笑い声や
美味しそうなお弁当の香りが
また私の胸をしめつける。

 

「絶対にくる」
「もしかしたらこないかも」

 

不安で不安で仕方が無い。

 


小さな子どもが
1人で立ち尽くす様子は目立つ。
周囲の人の視線が痛かった。

 

途中で先生のところに連れて行かれる。

 


結局来なかったのだ。
みじめだった。

 

楽しみにしていた分だけ
最後まで信じていた分だけ
ショックは大きかった。

 


いつものように朝まで飲んで
仮眠をとるつもりが寝過ごした養母。

 

私は多分、初めて養母に感情をぶつけた。
「待ってたのに!」

 

普段反抗しない私の訴えに
養母は逆ギレした。
「仕方がないじゃない!あんたのために一晩中働いてんのよ!」

 


こんな目に遭っても怒ることすら許されなかった。

 


多分この日から
養母をお母さんと思わなくなった。

 

 

 


あと
小学校の低学年の時は
いつも上履きが真っ黒だった。

 

ちょっと汚れているとかではない。

 

真っ黒だ。

 


私は持ち帰るということを知らなかった。

 

多分他の家の親は
小学校一年生であれば
上履きを持ち帰りなさいと言うのではないだろうか。

 


みんなが持ち帰るので真似をして持ち帰っても
洗ってもらえず
結局汚いまま持って行く。

 

自分で洗い方を覚えるまでは
いつも男子に
「竹田のうわばききったねー!女じゃねぇ」
と言われていた。

 


体育着もそうだった。
持って帰っても袋に入れたまま気づかれず
汚くてシワシワのを着ていた。

 


汚いことはとても恥ずかしいことで
自分で綺麗にしなければならない
と学べるまで

 

小学校三年生ぐらいまでは
私はとても汚い子どもだったと思う。

 

 

 

小さい子どもには難しい自分自身のケアを
いつも私自身の問題だと言われてきたし
私もそうだと思っていた。

 

必要なものを伝えないのも
お弁当が無いのも
上履きを持ち帰り洗うことが出来ないのも
私がだらしないから。

 


自分で何とかしなければいけないことが本当に多かった。
私は本当に養父母に養育を受けていたのだろうかと疑問に思う。