逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

自叙伝12 雑談が難しい私

私は

 

外向的な部分もあるけど超内向的
特定の場面ではコミュニケーションが上手く取れない
人の輪の中心にいないとその場にいるのが難しい
人に合わせることが出来ない
浅い人間関係を継続することに困難を抱えている

 


でも人からの印象とは全く違うようだ。
今の私がいつも人から言われる言葉は

 

「人間関係で苦労しないでしょ」
「華やかでいつも人に好かれるっていいね」
「いつも堂々としていて人が怖い気持ちなんて分からないよね」
「人と話す時に緊張する気持ちなんて分からないよね」

 


こんなようなもので

 


外向的で
コミュニケーション上手で
いつも人の輪の中心にいて
自由にマイペースに振る舞っていて
人間関係に苦労しない

 

だいたいこのような印象を持たれる。

 


努力を重ねているうちに
またそれなりに見せることが出来るようになっていたようだ。

 

 

 

私は雑談が苦手だった。

 

いまだに上手ではなく
苦労している。

 


私はおしゃべりだったし
人の話をじっくりと聴くのが上手だったし
人を笑わせるのが上手だったし
人に知恵を与えるのが上手だったし
人に知識や情報を与えるのが上手だった。

 

だから
私のこういう部分を発揮している場面だけを見ている人は
私が人と話すことに困難を抱えているなんて思わない。

 

 

 

でも考えてみてほしい。

 

日常生活で
学校や職場で
多種多様な人が集って
長い時間を過ごすときに

 

こんな場面は多くあるだろうか。

 


多分多くない。

 


私がリラックスして話せるのは

すごく親しい人と少人数で語り合う時
飲みの席などで腹を割って話そうという状況の時
イベントや飲み会などで盛り上がろうという状況の時
困ったことがあって相談された時

 

などで
短時間限定である。

 

 

 

多くの人は
人と長い時間を過ごすときには

 

笑いばかりを必要としない
親身な相談を必要としない
知恵や知識や情報を必要としない

 


多くの時間を雑談をして過ごしている。

 

頭を使わずにリラックスしながら
人と過ごすことがなんて上手なんだろうと驚く。

 

 

 

今だから分かったことだ。
昔はこんなことが全く分からなかった。

 

人とのコミュニケーションは
努力やスキルや能力だと思ってきたから

 

ただ必死に努力してきた。

 

 

 

みんなが楽しそうに雑談をしている時間は
私にとってはとてつもなく緊張する時間だ。

 


何が楽しいのか面白いのか
ちっとも分からない。

 

頭の中は混乱してパニックになって
真っ白だ。

 

それを表に出してしまうと
確実に目立ってしまう。

 

「どうした?」
「つまらなそうだね」
「そんな顔されるとこっちも気を遣うんだけど」
「なんか話しなよ」

 
こんなことを言われることになる。

 

だから
雑談の時間は
作り笑顔とあいづちが欠かせない。

 

雑談の時間は途方も無く長く
作り笑顔やあいづちも保たなくなってくるのだが。

 

 

 

何故
私は雑談が苦手なのだろう。

 

 

例えば

 

A「そのメイク可愛いね」
B「ありがとー」
A「このシャドーが一番いいよ」
B「ほんといいねー」

 

なんて盛り上がっている場面。
この流れるようなやりとりは素晴らしい。

 


こんな時私は

 

「もっとライン短くした方がいいのに」

 

「そのシャドーより安くて発色がいいのがあるのに
 どれだけ比較したの」

 

などと心の中で悶々と考え続ける。

 

 

 

私がメイクの話で楽しんで会話するなら

 


・以前のメイクより
 どの点がプラスでマイナスなのか

 

・他者からどのような印象を持たれるのか

 

・流行のメイクとの相違点

 

・彼の好みにあっているのか

 

・化粧品の比較はどのぐらいして
 どこが優れていると感じているのか

 


こんなことを話したい。

 

 

 

だけど
みんなは褒め合って楽しい時間を過ごしたいだけで
私のような話は望んでいない。

 

私の勝手な要望だ。

 

 

 


A「新しいカフェ良かったよ」
B「いいな。いきたーい」
A「普通に美味しいよ」
B「ほんと?私も食べたーい」
A「彼がだるそうで最悪」
B「最悪だよね~」

 

なんて盛り上がっていても

 


「良いって言っても似ているカフェが多いけどどこが違うんだろう」

 

「普通に美味しいって何がどんなふうに美味しいんだろう」

 

「彼がだるそうなのは悩みがあったり不満があったりするんじゃ」

 


なんて悶々と考え続ける。

 

 

 


私が人の経験を楽しく話したり聞いたりするなら

 


・新しいカフェはこんな内装でこんなメニューがあった。
 料理は自分はこんなふうに素敵で美味しかったと思った。
 自分はこんなところが良いと思ったけどここが悪いと思った。

 

・カフェで出会った店員さんや客の面白話

 

・カフェでの自分の失敗談

 

・彼に対する本当の気持ち

 


こんな感じになる。

 

 

 

みんなはただ日々の生活の報告をしあって
楽しく過ごしたいだけだ。

 

その時は
有益な情報を知りたいわけでも
面白く話したいわけでも
深い話をしたいわけでもないんだろう。

 

 

 


なんとなくだけど
私は

 

会話は

 

「建設的でなければいけない」
「誰かのプラスにならなければいけない」
「知的欲求を満たすものでなければいけない」

 

という思い込みがあったんだと思う。

 

 

 

だから自然に

 

自分がする会話は

 

「有益な情報を入れること」
「笑いを入れること」
「どちらかの興味があることを追求すること」
「人を励ますこと」

 

に限定されていたような気がする。

 

 

 

これでは上手く雑談が出来るようになるはずがない。

 

 

 


もうひとつ。

 

私の深い深い悩み。

 


人の話を聴くのは好きだし得意だが
浅い話や筋の通っていない話を上手に聴けない。

 


昔は
人の話を聴いているうちに
ついつい掘り下げて聴いてしまって

 

浅い話を沢山話すのを好む人に嫌がられたり

 

嘘やごまかしが多い人に嫌がられたり

 

深い話は頭が疲れると嫌がられたり

 

私に聴かれているうちに
話したくも無いことをつい話してしまったと怒り出したりされた。

 

 

 

今はやっと

 

私と親しくなりたい人
掘り下げてほしい人
誠実でいたい人
頭を使うことが好きな人

 

こんな人以外には
勝手に深く話を聴くことは失礼なんだと分かった。

 


これは
ある程度の距離を保つ必要がある人との関係では
とても悩ましい癖だけど

 

カウンセリングの時はとても役に立つ。

 

私のこの聴き方が
人の心の健康増進になることが分かった。

 


それに私と親しい人は
この聴き方をすごく喜んでくれる。

 

ただ
すごく頭を使わせることになるから
相手の脳疲労の様子を見ながら
深く掘り下げるようにしている。

 

 

 


なんと今は

雑談も少し楽しめるようになった。

 

私にも変化があった。

 


心が回復していく過程で起きたこと。

 

自分もとりとめもない話をしたくなった。

 


昨日何を食べたとか
昨日忘れ物をしたとか
なんとなく体調がよくないとか
近所に新しい店が出来たとか

 

なんでもない話をしたくなった。

 


あれだけ偉そうに

 

会話は
「建設的でなければいけない」
「誰かのプラスにならなければいけない」
「知的欲求を満たすものでなければいけない」

 

なんて思っていたのに恥ずかしい。

 

 

 

人に甘えられるようになり
人と居てリラックス出来るようになると

 

何でもない話をすることが出来るようになるんだと思う。

 


こうやって

何でもない話をして
ストレス解消になることを体感して

 

雑談って
誰かのプラスになることだ!

と気づいた。

 


それに自分も

好きな人の
なんでもない話を聴きたくなった。

 

 

雑談を話す方はまだ上手くない。

 

どちらかというと私は甘えられる側だから

リラックスもそうそう出来ない。
こればっかりは仕方が無い。

 

  

でも
雑談が誰かをリラックスさせることだと分かったから
雑談を聴くことは楽しめるようになった。

 

少ないけれど
私も雑談をする楽しさを経験できた。

 


これが私には驚くべき事で
本当に嬉しいことなのだ。