逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

愛という言葉は大好きだけど大嫌い


愛という言葉は世の中に溢れていて

 

やっぱり言葉のパワーがすごいから
なんとなく散りばめられているだけで

 

ほわっとしたり
胸がぎゅっとしたり
気持ちが動かされる。

 


だけど
私の中のあまのじゃくが黙っていてくれない。

 

「愛」なんて簡単に語るなよと。

 

 

 

私の中にいつもいる
あまのじゃくさん。

 

この人は

私の性格を悪くするので出ていってほしい

 

 

だけど
私という人間の芯になっているから
出て行かれると誰だか分からなくなる。

 


この人のおかげで私が私でいられる。

 


そう考えると私の大部分はあまのじゃくか。

 

 

 

そう
それで

 

愛という言葉に対して

 

強く求める気持ちもあれば

 

同時に腹を立てる気持ちもある。

 

 

 

 

私のような人生を送ってきた人間は

 

まさに「愛」に振り回されてきたから。

 

 

 

なりふり構わず愛だけを求めて
本当にそれ以外は捨て去ってしまうという人生。

 


今となって分かるのは

人生なんて
「愛」以外の要素がほとんどを占めている。

 

「愛」だけで生きていこうとするのは
そりゃ無謀だったと思う。

 



まだまだ「愛」を強く求める
若い人たちには
気持ちを削いでしまう嫌なことを書き始めてるな。

 

すみません。

 


その時代を過ぎた人だけ読んでくれたら助かります。

 

 

 

思い出してみると

 

普通に生活をすることが苦手だった私は

生活をおろそかにして
「愛」に生きてた。

 

現実の生活に目を向けたくなかったのかもしれない。

 


「愛」に生きるから
現実の生活が上手く行かない。

 

現実の生活が上手く行かないから
「愛」に生きる

 


なんかそんなふうにして
破綻にむかっていた気がする。

 

 


あぁ

だから破滅型の人は
いつまでも「愛」に生きられるのか。

 


生活が整ってくると
その生活を守ろうとするじゃない。

 

その生活を守るためには

 


睡眠を確保

 

規則正しく

 

やること沢山

 

投げ出せないこと沢山

 


とかになっちゃうから
「愛」に生きていた時の行動は取れなくなるよね。

 

 

 

現実の生活を整えようとすれば
おのずと
あの頃の「愛」には生きられなくなる。

 

 

 

だけど

これはこれで
新しい「愛」に気づくね。

 

燃えるような「愛」じゃなく
長くかすかに燃え続ける
決して消えない「愛」

 


たぶん私は
この形の「愛」を求めていたんだと
今となっては思う。

 


燃えさかって鎮火していく過程はとても耐えられない。
燃えさかるからこそ必ずあるのにね。

 

燃えさかることより
消えないことを求めてたんだよな。

 

 

 

現実の生活を整えながら

 

現実に起こる出来事に向き合いながら

 

長い時間をかけて
自分の心の波や、相手の心の波も全て受け入れながら
葛藤を重ねながら
「愛」が消えないようにもがいていく。

 


私なりに今思う「愛」はこれ。

 


現実や、その人の綺麗なところ以外の部分を無視しては
「愛」なんて語れないだろう
なんて思うから

 

毒づきたくなっちゃう。

 

 


私の仕事が
人の、綺麗では無い部分の方も沢山見て
それでも
長い間「愛」を消さないっていう仕事だったりするから

 

ついね。
簡単に「愛」を語っているように見えると
本当にこの苦しみを持ち続けてるのか?
と食ってかかりたくなる。

 


個人的な感情か。

 

 

 

冷静に考えると

 

今の私は
なんとか生活が出来ているだけで
現実的な生活(結婚、出産、育児など)が出来ていないから

 

結局は
現実の生活より
「愛」に生きているのかもしれないなぁ。

 

 

 

みなさん
「愛」に生きましょう。

 

 

 

 

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