逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

本当に「優しい人」とは

優しさって何でしょうね。

 


広辞苑で調べてみると

 

優美である、上品で美しい
他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである
穏和で好ましい感じである
悪い影響を与えない。刺激が少ない。
引け目を感じる。恥ずかしい。
控えめに振る舞い、つつましやかである。
けなげで立派である。

 


なるほど。

 

驚きませんか。

 


普段使われている
「優しい」の言葉のイメージとはちょっと違いますよね。

 

 

 

みなさんの「優しい」のイメージは

 

度量が広くて
面倒見が良い
人の役に立つ
困った人を放っておけない

 


そんな

 

力強く
おおらかで
主体性のつよい

 

そんな感じではないですか?

 


私も「優しい」のイメージを
そんなふうにはき違えていて
そんな優しさを手に入れようとしてきました。

 


みなさんも同じではないでしょうか。

 

 

 

優しい人になりたいから

 


自分に余裕が無くても
本当は嫌で、やりたくなくても
目の前の困っている人の頼まれごとは
絶対に断らない

 


どんなに失礼な人であっても
不満を持ってはいけない

 


自分も問題を抱えているのに
人の面倒をみる

 


人の役に立つことを
とことん考えて奉仕する。

 

 

 

こうやって文字にすると
分かりますね。

 

いつも自分を犠牲にしてしまってますね。

 

 

 

これでは
どんなに優しい人であっても

 

心から優しくしたい

 

とは思えなくなるのではないでしょうか

 

 

 

先ほどの広辞苑の優しさの定義を見返すと

 

 

 

押しつけがましくなく
その人が欲しいことを欲しい分だけ手助けをする
助けてやるのではなく出過ぎない
助けたとしてもそれを知ってもらわなくても構わない

 

そんな姿勢が見えます。

 

 

 

なるほど

 

こんな姿勢だったら

 

もらった方は

素直に優しさを受け取れますし

心から嬉しく思いますね。

 

 

 

この姿勢でいることは

 

自分を犠牲にするよりも
すごく難しいことではないでしょうか。

 


余裕が無ければ無理ですし

 

自分が勝手に優しくしたいからするんだ
という気持ちが必要な気がします。

 

 

 

優しくされた側が負担にならないように
人に優しくするには

 


余裕が無ければ無理である。
自分が勝手に優しくしているんだから
見返りを求めたり
優しくしている自分を知って欲しいと思うのはおかしい。

 

こういうことになりそうです。

 

 

 

人に優しくするって
こんなに難しいんですね。

 

 

 

私も
自分なりに押しつけにならないよう意識しながら
優しくしようとしていました。

 

 

 

私の意識は

 

相手の求めるものを求める量だけ。
自分が与えたいと思ったときに自分の余力で与える。
与えたものが返ってこなくていいと思えるところまで。

 

広辞苑の優しさの定義にかなり近いですね。

 


ただ

 

これでは
相手の求める量が多すぎるときに

 

影響を与えすぎない
控えめに慎ましやかに

 

というふうに
いかなくなってしまっていたんだと気づきます。

 

 

 

相手の求める量が多すぎるときは

 

「与えない」

 

という選択肢を持てることが
優しい人に近づくことなのではないかな

 

と私は思っています。

 

 

 

 


みなさんは

 

優しい人のイメージは変わりましたか?

 

どんなふうに人に優しくしていきたいと思いましたか?

 

 

 

 

 

関連記事

 

 

lilcafe.hatenablog.com

 

 

lilcafe.hatenablog.com